言うならば金のない有閑マダムのような生活をしている。だだっぴろいのっぺりとした平野が広がっているような私の日常は一言で言えば暇で、月2回ほどライターの案件の仕事をこなしていると言えど、それ以外は家事・動画鑑賞・散歩や読書などに費やされ、無為に時間を過ごしている気がしてならない。NetflixやYoutubeの巡回中に、膨大な選択肢から自分の観たいものを見つけられない時など、私って今社会的に死んでるな、と思う。
暇すぎて虚無感の中で惰眠に1日を捧げることもある。完全に生活がマンネリ化している証だ。次のステップに行かねばならない。そう、社会復帰。
言ってしまえば生活保護は生存が保障されているだけで、その後のケアはあまりない。利用停止にまで持っていく情報が少なすぎる。延命装置としての役割を果たしていても、退院の方法はわからない。
9月から生活保護を受給するようになって、近所のお気に入りの八百屋さんの常連さんになろうと画策しているくらいには一人暮らしにも充分慣れた。生活を回していくことだけなら私の足腰は随分しっかりしてきたのだが、社会に対してのそれは貧弱すぎてスクワット一回も危ういと思われる脆さで、土台も何もあったもんじゃない。
それに加え、貯金高ほぼゼロ、就活スーツも持っていないようなお粗末な装備である。社会復帰コースを歩もうにも、青写真がないので未来予想図を必死に作るべく、一回休みとリセットボタンが同時に押された状況の中必死で頭を巡らせている。
しかし、決まらないのだ。もう今年26になるというのに、同期の友人は4月から社会人4年目だというのに、まだ私はモラトリアムの中で唸っていて、情けないことこの上ない。別に将来設計も完全に決める必要はなく、ぐらぐらしたハリボテの土台を持つ私は「スモールステップ」を着実に登っていくしかないのだとわかっているのだが、きらびやかなビジョンというやつが欲しくなってしまう。
その輝かしいシナリオを練り終わったら、私はきっと安心するだろう。現実はその筋書き通りに全て進むわけもなく、今までだってその繰り返しだった。それでもほっと胸を撫で下ろし、「これで大丈夫」と唱えると思うのだ。まやかしだと気づいていても。
安心するのは未来の輝きをその身にまとったような気になるからだ。虎の威を借る狐のようなもので、自尊心をそこで補償しようとしてしまう。
大切なのは自分で決めたキラキラ未来ではなく、目の前のできることを少しずつでも地道に一歩ずつこなしていくこと。夢見る力を推進力に未来をグングン開いていくのも結構だが、クロールしている同期たちを横目に必死で水中ウォーキングをしていくしかない。悔しいと地団駄を踏んでもプールサイドで滑って転ぶし、焦ってバタ足を始めたところできっと水を飲んで溺れるだろう。ここで必要なのは忍耐力、積み重ねるプロセス自体を楽しむ余裕、自分が成長するのを待つ力だ。
将来の展望は、今の焦りを打ち消すための特効薬にはなり得ない。華々しい未来を北極星のようにどこかに据え置き、心が迷った時の道標にするくらいにはキャリアプランニングしておきたいところだが、間延びした日常に必要なのは小さなハードルを一つずつクリアしていくこと。延命装置に頼らずに自家発電できるようになれればと、軽いバイトに応募してみたところである。