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2F/当番ノート

光のみちしるべ

当番ノート 第56期


今年で、線維筋痛症、慢性疲労症候群という病と共に生きて、12年ほどになる。

23歳ごろから、少しずつ体に鉛を注入されたかのごとく、怠さが増していった。家の中での移動でさえ、体を重力から剥がすように、足をよいしょ、よいしょと一生懸命動かさないといけなくなって、すぐに息が上がるようになってしまった。通学することも困難になり、日常生活もままならなくなった私は色んな病院に行って、何人ものお医者さんに相談した。しかしどこに行っても結果は「異常なし」で帰された。怠い。しんどい。しかしなぜ。一体これからどうすれば。答えの出ない問いで頭はパンクしそうだった。

家で鉛のような体を横たえて過ごしているうちに、ある日の朝、足の違和感で飛び起きた。両足の付け根から脚全体に、ビリビリ電流が走っているような痛みが走っていたのだ。足を地面に接地する度、足がずきずきと疼いて歩くこともままならない。布団に脚がすれる度、脚の表面がジンジンして眠ることもできない。これは大変な病気に違いない、だってこんなに痛いのだからと、大急ぎで整形外科、リウマチ科、ペインクリニック、色んな病院に行った。どの医者も最初は、神妙な面持ちで私の話を聞いてくれる。しかし、あらゆる検査をしても異常が出ないと知った後、彼らの態度は手のひらを返したように冷たくなった。ここで帰されて、このまま痛みが続いたらどうやって生きていけばいいのだろう。「本当にとっても痛いんです。脚がジンジン、ビリビリしてしまって、家の中の移動も大変なんです。」と必死に訴える私に、医者たちは毎回「気にしすぎじゃないですか」「運動したら治りますよ」と突き放すように言った。面倒くさそうな顔で私を眺め、次の患者さんのカルテを用意しだす彼らに、私はこれ以上何を言っても仕方がないと思い、喉が締め付けられて涙が出そうになるのをぐっとこらえて、そそくさと診察室を出るのだった。

運動をしたら治る、という医者の言葉を信用し、痛い足を引きずりながらヨガや水泳に通った時期もある。しかし、その間にも痛みがどんどん悪化してしまい、小さい頃から大好きだった水泳でさえ、水が体に当たると痛くなり続けられなくなった。そしてヨガも通うこと自体が困難になった。足の痛みは徐々に私の腰や手、背中、と全身を覆いだし、46時中、頭痛に襲われるようになった。そのころは、色んな病院をたらい回しにされた末、最後に紹介された精神科に通っていた。精神科の先生は、私が症状を訴えれば訴えるほど沢山の薬を処方した。食後に毎回、沢山のお薬を胃に流し込む毎日を送っていると、副作用で頭が全く働かず、鉛のように重い体は更に沼地にはまったように動きにくくなり、毎日寝込む日々を送っていた。いくら薬を飲んでも副作用ばかりで痛みや怠さは良くならない。むしろ悪化していることに不安を覚えた私は、主治医に「やっぱり痛みが治りません。体中がジンジンするんです」と思い切って言ってみた。すると彼は「そんな痛みは存在しないよ。痛みは気持ちの問題なんだから薬を飲んでおきなさい」と、更に新しい薬を処方した。どこに行っても異常なしで帰される私はそのお医者さんを頼るしかなく、段々痛みで朦朧としているのか、薬の副作用で朦朧としているのか境目が曖昧になって行った。

そんな日々が5年ほど続いたある日、やっぱりこれは何かおかしいのではと思い「全身疼痛 怠さ 原因不明」とネットで検索すると「線維筋痛症、慢性疲労症候群」という病名が目に入った。「血液検査などでは原因が分からないが、全身が痛む病。また慢性的にインフルエンザのような怠さを抱える病」。この言葉にピンと来た私は、ネットの掲示板にこう書きこんだ。「何年も体中の痛みや怠さに悩んでいます。今通っている病院の薬は全く効きません。〇〇に住んでいて、近くに線維筋痛症や慢性疲労症候群を診ていただけるお医者さんをご存じの方が居ましたら教えてください」。すると3人くらいの人が私の家から30分ほどの所にあるAクリニックを勧めてくれたので、翌週さっそくAクリニックに行ってみることにした。

さんざん色んな検査をしても、どんな薬を飲んでも良くならず、医師のめんどくさそうな顔ばかり見ていた私は、最初Aクリニックのことも疑っていたのだが、そこの先生はとても丁寧に問診をしてくれた。怠さから痛くなった経緯、精神科で貰った沢山の薬を飲んでいるけど全く良くならないこと、最初は水泳やヨガが出来ていたけど、今はそれもできなくなったことなど、ここ5年間の私について先生と1時間位は話をした。そして触診でどこが痛いか確認をしてもらい、「線維筋痛症と慢性疲労症候群だね。今飲んでいる薬は効かないよ。違う薬を出しておくから。」と先生は言った。この瞬間、私はやっと名無しの病から、「線維筋痛症、慢性疲労症候群の患者」となり、私は「病気」と認められたのだ。更に、今まで何の薬も効かなかったのに、その病院で痛み止めの点滴を打っていると、輸液が減っていくにしたがって、体にこびり付いた痛みがスーッと剥がれていくことに驚いた。点滴を終えた後は体の痛みは半減し、その分体も軽くなっていた。その効果は結局1日くらいで切れるのだけど、痛みで行くのを諦めていた山下清の展覧会に、寄って帰ることが出来たことを覚えている。

それから今年で7年くらいになるだろうか。ずっと私は二日に一回の点滴に通って、先生に出された痛み止めを飲んでいる。副作用で常に眠いのだが、精神科での薬漬け生活よりはずっとましで、自分のペースで家事をしたり、読書をしたり、こうやって文章を書いたり、犬の散歩に行ったりできている。確かに体調は少し良くなった。生活の質も少し向上した。が、しかし、気づかないうちに違う問題が発生していた。こうやって病気をこじらせ病院と家を往復する生活を毎日しているうちに、友達が誰もいなくなってしまったのだ。確か、病気になったばかりのころは、数名の友人とは連絡を取っていたはずだ。友人はみんな健康で毎日使命感を持って働いている。かたや私はずっと病気で無職の身。病気である時間が長くなればなるほど、会話がどんどん通じなくなっていき、痛みで友人に会うことさえ困難になり、いつの間にか誰からも連絡が来なくなった。皆から忘れ去られた孤島にぽつんと置いてけぼりにされてしまい、夜になると寂しさが私をすっぽり覆い、一人静かに布団で涙を流してた。寂しさに覆われるのが耐えられなかった私は、次第にその寂しい気持ちに蓋をして、働きに行く人々を沢山載せた満員電車に揺られながら、一人、淡々と、病院と家を往復する生活を送ってた。

※※※※

2020年、新型コロナウイルスが流行りだした。密を避けて下さい。ステイホームしてください。不要不急の外出は控えてください。それらの合言葉を毎日ニュースで聞きながら、何故か相変わらず密な電車に揺られつつ、コロナにびくびくしながら点滴に通っていた。

この病気になってから酷く免疫が落ちている。ということは、あまり外出せず、家にいた方がいいということになる。しかし点滴を受けないと体が痛くなり寝込んでしまう。痛みとコロナのダブルパンチで、徐々に不安が大きくなり、気持ちは焦っているのだが何から手を付けていいのか分からない感覚に襲われた。

しかし、そのあたりからSNSで「オンライン読書会」「オンライン哲学対話」などの告知が目に入るようになった。何年も孤島で暮らしている私はいつも見えないトランシーバーに向かって「応答セヨ、応答セヨ」と人を求めてたのだけど、病院と家の往復しかしてない私の話が本当に他人に通じるだろうかという不安が大きく、ずっと参加できずに、告知ばかりを見る毎日が続いてた。

ある日、TwitterでフォローしているIさんが、1対1の哲学対話の参加者を募集しているのを知った。いきなり集団に入って話すよりも、1対1のほうがハードルが低い気がした私は、IさんにDMし申し込みをした。一度も哲学対話に参加したことがないのだけど、という私でも、Iさんは心良く引き受けてくれて、当日は2016年に障害者の方が19人殺された相模原殺傷事件について1時間半くらいzoomで話をした。今は亡くなってもう居ないのだが、数年前まで重度障害を持つ伯母と暮らしていた私にとってあの事件は「自分事」であり、他の方がどう思っているのか是非知りたかったのだ。「久里子さんの話、とても面白かったです。毎週月曜の夜にDabelという音声アプリで哲学対話が開かれているから、ぜひ参加してみてはどうですか」というIさんのセリフが私の背中を後押しし、集団での哲学対話に出るきっかけをくれた。

次の月曜の夜8時きっかりに哲学対話は始まった。集団での哲学対話は初めてで、最初は聞いているだけ、と思っていた私だったが、皆の対話にどんどん引き込まれ、なんと気づいたらスマホ越しに話してた。しかもちゃんと私の話は皆に通じているようだった。見えないトランシーバーから沢山の人からの応答があった瞬間だった。病院と家だけだった私の世界がオンラインで一気に広がった。コロナ禍の不安だった毎日も、人と話すことで楽しさが充電できて、不安が私を覆うことが無くなった。

読書会や哲学対話で、人と話をしていると、ハッと急に視界が開けたように感じる時がある。知らない事を教えてもらったとき、違う角度からの意見を聞いた時もちろんそうなるのだけど、私が一番それを強く感じるのは、自分の心の奥にあった呻きを言語化してもらったときだ。私たちはひとりでは自分自身の中身を知ることはできなくて、人と交わることによって、私を形成しているものを知るのだろう。自分を知るということと世界が広がるということは車輪の両輪のように関係しあっているのではないのだろうか。

24時間の絶え間ない痛みや怠さは不安を常に引き寄せる。真っ暗闇の中、ずっと手探りで生きている。しかし、聖書のヨハネの福音書をめくると「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」という聖句が目に入る。真っ暗の中に居ると思う中でも、かすかな光はあるのではないだろうか。普段は気づかないくらいの繊細な光でも、闇が深ければ深いほどその光は際立つはずだ。

久里子

久里子

1985年生まれ。線維筋痛症、慢性疲労症候群を患って12年目。
昨年から一人で当事者研究をしながら物書きをしています。
プロテスタントのクリスチャン。
動物と植物が好き。
いつか書く仕事がしたい人。

Reviewed by
Maysa Tomikawa

なんで理解してもらえないんだろうって、目に見えない痛みや、辛さなどの自覚症状について人に話すとき、そう思ってしまうことがある。例えば、今この痛みが、テレパシーかなんかで相手に伝わって、だらだらと言葉にしなくても「ああ、ここがこう痛いのね、ここがこう辛いのね」と伝わったらどれだけスムーズにいくんだろう、とかね。どんなに多くの「それは思い込みだよ」を避けることができただろうかって、悔しいような気持ちになったりして。

でも、その一方で、他の人にこんな思いはさせたくないと思ったりもするし、かといって同じような境遇の人がいるとやっぱりちょっと喜んでしまう。わたしたちの心はとても複雑で、優しいような、優しくないような。なかなかに難しい。


病と生きるというのは、日々自分の体のありとあらゆることに目を向けることだと私は思う。普段は意識しないような、生きる上での瑣末なことと、一つ一つ向き合っていくこと。自分たちのいつかの終わりを見据えて生きること。そして、理解し合えないことが存在していることを知ること、そして、それを受け入れることでもある。

どんなに愛し合う人同士でさえ、ぞれぞれが感じている痛みをまったく同じように分かち合うことはできない。それは悲しいことではなくて、私たちが異なる人生を歩んでいる証拠で。その上で、私たちは会話を通じて、いろんな深さで繋がりあうことができる。思い通りにならないこともばかりでも、そこには細い微かな繋がりができていく。夜の街路灯みたいに、ぼんやりとオレンジ色の光が、ぽつんぽつんと繋がって。光が交わる場所は、ぐっと明るくなるでしょう?

光の交わる場所を求めるのは、人間のとても根源的な欲望なのかもしれない。たとえ、理解したいこととされたいことが、ぴったりと同じ形をしていなくても。同じような等級の明るさじゃなくても。どうか、その光を失わないで、どうかその光を信じてと祈ってしまう。生きるということは、それくらいに微かなことであり、難しいことなんだと思うから。

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