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2F/当番ノート

私の文法、文化を取り戻す

当番ノート 第56期

4月から、ベランダに沢山日が差し込むようになった。寒い間押し黙っていた植木達がぐっと伸びをして思い思いに伸び始め、柔らかい新芽がにょきにょき顔を出している。病気になってから植木を育てることが趣味になった。多肉植物、サボテン、エアープランツ、バナナの苗、ハーブ、ビカクシダ(熱帯のシダの一種で葉っぱがかっこいい)、オージープランツ(オーストラリアや南アフリカ産の植物。ドライフラワーにアレンジしやすい)など、色んな植物を育ててきた。4年前にモネが来て植木に手をかける時間が無くなってしまい、ちょうどその時、灼熱の西日が照り付けるベランダの部屋に引っ越しをしたせいで、大分植物を枯らしてしまった。今は、余り手がかからなくて夏場に熱を帯びた西日が当たっても耐えられる植物だけ育てている。特に最近のお気に入りはアイビーだ。アイビーなんてその辺に雑草みたいに生えていると思われがちかもしれないが、冬に白い葉っぱを出す白雪姫、葉っぱがパセリみたいにクシュクシュしているグリーンチュチュ、アヒルの足みたいな形の葉っぱのダックフットなど、アイビーの種類の多さは馬鹿にできない。色んな種類のアイビーを寄せ植えして、違う葉っぱのアイビー同士が絡んでいくのを見るのは面白い。アイビーの長く伸びたツル達が、うちのベランダからふさふさ出ているのを道路から見上げるたびに、そのかわいらしさにんまりしてしまう。

植物を育てるのに一番大切なことは、水をやるとか肥料をやるとかでは無くて環境設定だと感じる。いくら大切に水をやったとしても、うちのベランダではラベンダー、ローズマリーなどのハーブは育たない。ああいったハーブは蒸し暑い環境がとても苦手だからだ。またエアープランツも西日が苦手ですぐに枯れてしまう。水を多く含んだプリプリの多肉植物も、西日で内側の水分が熱湯になってしまい、葉っぱがデロンと溶けてしまう。だから植物を新しく買うときには、蒸し暑い環境でも育つことができるかどうかをチェックするようにしてから買うようにしている。

植木達を育てていると、もしかしたら人間だって同じかもしれないと感じてしまう。私達は、幼稚園、小学校、中学校と学年が上がるにつれ、管理された社会に入っていく。授業中50分はじっと前をみて座ってる、その後10分休憩をとる、授業が終わったら放課後は部活をする、と皆同じルーティンで動くことを強制され、それに合わない子供は、まるで落ちこぼれ扱いされてしまう。きっと子供だって植物と同じで、西側の暑いベランダで良く育つ子もいるし、北側の余り日の当たらないベランダが適している子がいるはずだ。学校生活というのは、そんな彼ら、彼女たちを同じ方向のベランダに並べて、同じ頻度で水や肥料をやっているのではないだろうか。私は小中学校での学校生活が退屈で仕方がなかった。私にとって学校生活というものは、疑問があってもそれに取り合わず、ただお尻を椅子に長時間くっつけておく訓練場だった。私達は本当は自分の好む適した場所があるにも関わらず、無理やり体を同じ環境に適するように自分自身をコントロールする訓練をさせられているのではないだろうか。

学生の頃、聾者から手話を習って、色んな手話サークルに通っていた時期がある。勉強するにつれて、聾者には日本語と異なる文法を持つ日本手話(*)、そして健聴者と異なる文化の聾文化(**)という、独自の言語や文化があるということを知った。しかし、一般的な聾学校では、耳が聞こえてなくても口で話す訓練(口話教育)をさせられ、日本語対応手話という聞こえる人が人工的に作った手話を使用するそうだ。そのため、手話を使えず口話しかできなかったり、使えたとしても日本語対応手話しかできない聾者は多くいる。彼等は、聞こえる世界に無理やり適応させられることで、独自の言語や文化を奪われて育つのだ。

しかし、これは聾者だけに言えることだろうか。もしかしたら、健聴者も、小さい頃は独自の文化や文法を持つ子供だったけれど、学校やその後に続く社会に適応していくうちに、いつの間にか自身の文化、文法をこの社会に奪われているのではないだろうか。まず、我々一人一人が自分自身の文化や文法を取り戻すことが本当の多様性につながるのではないだろうか。

アメリカの作家であり公民権運動家ボールドウィンが言った以下のセリフをいつも心のお守りにして生きている。

「あなたは、自分が何者であるかを自ら決めないといけないのです。そして世界が決めるあなたの像ではなく、自分自身のそれでもって扱われるよう世界に強いていかないといけません」(『誰にも言わないといったけれど』(ジェームズコーン著)より)

今までの私は、社会に添うように、お行儀よく形を整えてきた。まるで、沢山の針金をかけられ樹形を整えられた盆栽のように。私のベランダから好き放題もさもさ葉っぱを伸ばしているアイビーを見るたび、いつか私も「私」という主語を取り戻して、そして、そこにいるあなたも「私」という主語を取り戻し、アイビーの寄せ植えのプランターのように互いに絡み合い世界を構築できたら、と願っている。

(*)日本手話、日本語対応手話の違い。

日本語対応手話は、日本語の音声に合わせて単語を一語一語合わせて手を動かす。しかし日本手話は独立した文法を持つ。

例:「あなたの名前は何ですか?」

日本語対応手話は「あなた」+「名前」+「何」+「です」+「か?」と示す。日本手話だと、「あなた」を示した後、「名前」を示しながら首を横に振る。この首を横に振る動作が疑問形を示す。

(**)聾文化の例

人に対して指を刺したり、初対面の人に結婚しているかと聞く。

Reviewed by
Maysa Tomikawa

悲しいけれど、今私たちが生きているのは、強い者たちの世界だ。強い者、と書いたけれど、それはあくまで現社会でそのように想定されている人のこと。

人間も植物や動物と同じで、環境に合う、合わないがある。多くの場合、その文化、文明の中で多数派や強者とされる人々の輪郭に沿って、基礎がつくられている。多分、”無駄”を省いて、自分たちの影響力をできる限り維持するためなんだろう。だから、どうしてもそこからあぶれてしまう人がでてくるのは当然のことで。

そもそもわたしたちの輪郭は、型のようにかっちりしているものではない。その型に、自分の輪郭を当てはめようとしたら、無理に型の中に自分自身を押し込んだり、縁と自分の輪郭とがすかすかして隙間だらけだったりする。型にはまらない部分を、自ら切り捨てること(といってもそれは能動的な行いというより、強いられた選択)もあるし、自分ではないものになるために、隙間を埋めるようにいろんなものを詰め込んだりしてしまう。

改めていうけれど、それが悲しい今の状況だ。おそらく、今後もこういう社会は続くだろうし、窮屈を強いられる人はで続けると思う。その一方で、それっておかしいよね、って声を上げ続けている人々もいる。自分で自分自身を取り戻そうと努力している人も。

型から抜け出して、自分の輪郭に自信を持つこと、自分の輪郭を取り戻そうと努力すること、そういう葛藤をへて、ようやく健康的な社会生活ができるんだと思う。正直、全てが同じかたちで、同じ経験しかしていなくて、同じ状態であることしか歓迎されないとしたら、その社会はとても不安定なものだ。合う合わないに応じて、自由に自分のかたちを表現できること、それこそが本来あるべき姿なのだと思う。


と、そんなことを言っても理想に過ぎなくて。だからこそ、自分自身でいられる方法、自分自身の輪郭をきちんと守ったり、育てたりする方法がひとりひとりに必要なんだよね。植物を育てることでもいいし、洋服をつくることや、本を読むこと、部屋を掃除すること、ベランダでお酒を飲んだり、ゲームに夢中になったり、何キロも散歩に出たり、車を走らせたり、一生懸命働いたり、仲間と一緒に走り回ったり。結局のところ、自分で自分を取り戻す方法は、自分で決めるしかないんだよなって、鏡の向こうの自分を見ながら強く思った。

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