最近乾燥してない?と友人に尋ねたら、え、茨木のり子の詩のこと言ってる?と聞き返された。思わず私の感受性と尊厳は瑞々しさを保っているかと自問自答していたのだが、駄目なことの一切を時代のせいにすることは、本当にわずかに光る尊厳の放棄なのだろうか。今の私は、社会由来の苦しさを無視されながら叱咤激励するマッチョイズムを感じて苦しくなる。
障害者雇用で時短勤務から社会復帰しようと思い、勇み足で転職エージェントに登録したものの、あなたに紹介できる求人は今のところないというご回答をいただいた。コロナ禍での不況、そして私に職歴とスキルがないことが影響し、倍率が高まっている中に私の入る余地はないらしい。にっちもさっちもいかない状況である。
起きる出来事は全て必然であり、神は乗り越えられない課題は与えないというスピリチュアルによくある言説が嫌いだ。茨木のり子の詩に似たものを感じる。だが、諦念でパサパサに乾いた心に忍び寄るのは耳障りの良い甘言と希望に満ちた叱咤激励で、嫌いと言いつつも私は過去何回もそれにひっかかってきた。
人生訓が書かれた読み物から始まり、紙にお願い事を書くと叶うというおまじない系、現実化して欲しい未来を完了形で言い切って繰り返し声に出すアファメーションなど、がっつり引き寄せの法則に由来したものも試した。前世療法のセッションまで受け、アセンションの意味も難なく解説できるので、その道を通ってきた人だと言えるかもしれない。
今は揶揄するくらいそういったものから距離を取っているのだが、スピリチュアルに救われた時期もあった。類の本には、自分を愛する力が全てを変えるパワーになり、ご機嫌でいれば丸ごと解決、などと書かれている。るんるんを保つことが自分を本当の意味で愛することになるのか今となっては甚だ疑問だが、当時の私は信じ切った。というよりも、信じるしかないほど追い詰められていた。どのように絶望的な現実を変えればいいかわからず、解決策を考えるよりも、頭の中だけでも逃避して希望に縋ることしかできなかった。
スピリチュアル言説を憎む理由は、神は乗り越えられない試練を与えないというのも、置かれた場所で生かしなさいも、ただの精神論でしかなく、もはや自己啓発の域に達していると私は思うからだ。両方とも聖書の言葉からきていたり、クリスチャンの作者の言葉だったりする。きっとキリスト教の世界の解釈では様々なものがあるのだろう。だがしかし、クリスチャンではない私は、その言葉に救いではなく残酷さを見出した。高みから笑って見物しながら自己責任論を押し付けられているような気分になるのだ。
パサパサに乾いた心に甘い毒を吸い込ませてはいけないとわかっている。でも今回もやっぱり苦しく、願いを紙に書くおまじないに頼ってしまっている。現実から目を逸らせ、問題解決能力まで失わせる可能性があるご機嫌教なのに、とりあえず自分の気持ち良いことをしよう、と思考回路がるんるんに寄ってきているのを感じる。
エージェントには再度連絡を入れ、たとえ求人がなくとも今の私にできることはあるかと質問した。MOSなどのPCスキルをつけることが一番いいそうだ。ゆるふわとリアリストの間を行ったり来たりしながら、痛みをやり過ごしている。