人は死ぬと体が残る、だから何も遺さずにはこの世から居なくなることはできない、というカンジの話を、以前テレビで誰かから聞いた。『孤独死』についての作品をつくる作家の方の言葉だった気がする。
そんな言葉が心に残っているので、今週は“人間と物語”についての文章を書く。
(先週は時間とは物語なのだという事を3000文字くらいは語ったので、今週は少し短めでいきたい。)
人は死ぬと何かを残さずにはいられないのだから、その残していくものの処理を誰かに頼むとするならば、その誰かには迷惑をなるべくかけたくないよね、という意図をもって先の話は語られていた。確か。記憶があんまり定かではないが。
誰もがいずれ遺体になるのと同時に、誰もがまずは女体から生まれてくる。
女体から生まれないひとも、私がまだ知らないだけでもういるのかもしれないけれど、これから化学が発展したら試験管からベイビーが生まれるかもしれないけれど、とりあえず女の体から人間が産まれてくる。
誰もが遺体になるのは当たり前なのに、最初に自分を産んだ女が自分にとっての母親となるのは当たり前ではないのが、面白くて不思議だなと私は思う。
この母親のあたりのような、どこまでも細分化させることが可能な“設定”は、物語の創作過程において脚本の持つ魅力を左右する要素だ。私がこの夏読んだシナリオ執筆の為の本のほとんどが登場人物の履歴書を最初に作ることをお勧めしてきたくらいだから、人物にまつわる要素は多い方がいいのだろう。
本たちの言う通り、どこでどう生まれて、どんな人に囲まれて育ったかは人間の大事な根幹になる。
だけどその生まれ方の設定に、こうでなければいけない、とか、こうきたらこう!というような規制はないはずである。もし規制があると感じたならば、それは書き手にかかっている規制だ。
私たちは、遺体としての最期を約束されているとはいえ、そこに至るまでは至極自由に自分を生きることが許されているのだ。
わたしたちの人生はわたしたちのもので、わたしたちの設定もわたしたちのものだ。
行きたくないけど行かないことは許されない、と思っている場所も電車に乗って戻らなければもう二度と行かなくても済むかもしれない。
絶対に変わらない、と思っていた事態も、ひょんなことから変化を始めるかもしれない。
固定観念が物語をせき止めるのなら私は固定観念を捨てる。
最近はぶっ壊れたままもうきっと二度と生き返らない……と思い込んでいたPCのタッチパネルが設定をいじることで生き返った。固定観念が物語をせき止めるのなら私は固定観念を捨てる。
ただでさえ魂がこの体に固定されていて窮屈な思いをしているのに、さらに自分にくっついて離れなくなるものが増えたらもっと動きづらいに決まっているから。
だけど、どれだけ私自身が身軽になったとしても、それでもやっぱりこの体がいずれ私として、私が死んだ後この世に残るのだ。
だったら語らなければいけない。自身の物語を、自身の生きているうちに。
以前、化石の展示を見に行った。生きているものは、何も残さずに消える事ができない、というこの記事はじめの言葉を思い出した。
私は遺体を見たのは祖父が初めてだったが、祖父は化石にならなかった。
祖父が化石になったら、化石展の化石たちと一緒に、博物館に飾られて、説明文もついたのだろうか。墓にいれられた骨は取り出してまで見ないけれど、化石になったら一年に一回くらいは見に行けると思う。だから祖父は化石になればよかった。
祖父亡き後、幼少期の私には伏せられていた祖父の物語が溢れだした。私の中で祖父の展示の横の説明文が次々書き換わった。
祖父が固定された体で歩んだ物語は、語られたものしか私は知らない。
人間は物語だが、人間を物語にするには、人間自身が、自身を語らねばならないということだ。
わたしはわたしの化石ができたときに横につくコラム的なものが、ロマンチックな文章であると嬉しい。
だから自分が一番ロマンチックだと思っている「物語を作る」という行為を何度も繰り返しているのだろう。
死骸の横に飾りたい文字に相応しい自分になる為にも、私はこの行為を続ける。