最近は制作している作品のひとつを他人と作業を分担しながら進めていたものの、熱量の違いによって頓挫しており困っている。
真面目に頑張っているはずでもうまくいかないことはたくさんあるが、大体そういうときは他人任せにしてうまくいかないので自分がもっと頑張るべきだったなと反省している。大体何事も自分が悪い。
自分の内面や、抱えているものを開示することはとても難しい。
最近友人と「面白い作品を作る人は自分の性癖をオープンにしているよね」という話をした。
ここにでてくる性癖という単語は少しネットスラング的な意味合いも含んでいて、単純に好み、なんていうふうにも言い換えられると思う。
作者の人生観や人間性が出ている作品。これの作者はこんなものに魅力を感じているのだな、と受け手が気づく作品。
自分が魅力を感じないものを、魅力的に描く事はとても難しい。だから色々なものに魅力を感じて生きていたいし、作家として望まれるのもそういう姿だと思う。
では、嫌いなものを描いた結果にできる作品は、どんなものになるのだろうか。
大学一年生の夏、嫌いなものをたくさんつめこんだ作品を作った。
閉鎖的な田舎、自分が生まれ持った幸せに気づかない人、文化芸術に理解のない教員、誰かを傷つけるルッキズム、中学生男子、貞操観念のゆるい妊婦、子供の可能性を潰す家庭環境、外飼いの犬、周囲との交流が上手くいかない事を周囲のせいにする偏った思考、自我が薄いと思われている女の子、
できた作品は悪意に満ちていてとても不健全だった。登場人物は皆わたしの嫌いな要素を持たされているから作っていても楽しくなかった。何が嫌いかというのを再確認するのには良い機会だったけれど、愛される物語にするぞー、という努力を怠られているから、セリフの空気感も冷たくてとげとげしい悪口のようなものばかり。
それを見返して、どうしてこんな悪口が思いつくくらい、彼らを嫌いになったんだっけ、と思った。
嫌いというのは「踏み込みたくない」「これ以上関わりたくない」「知りたくない」という否定の感情だが、私はどうして外飼いの犬が嫌いになったのか。
小学校低学年の頃、家の近所の空き地に何かの檻が捨てられた。
私はその檻が捨てられてすぐの日、下校中に通りがかったことで、存在に気づいた。
その檻には何かが入っていた。
恐らくあれは犬だった。ラブラドールレトリバーみたいな、大型犬か何か、そんな形をしていた気がする。
下校班の全員がその光景を見て不思議がったはずだ。なんであんな空き地に、急に檻が置かれたんだろう。あの犬、犬かな?犬だったら誰の犬だろう。もしかして、空き地のすぐ裏の家の人が、犬を飼い始めたのかな。
でも、誰もその犬の話をしようとしなかった。不自然なくらいに。きっと私を含めた全員が、あの犬であろう生き物に、関わりたくなかったのだ。
その日の夜、犬はずっと鳴いていた。
私の寝室は空き地のある方向に窓があって、窓の下にベッドを置いて寝ているから、私はその日の夜、ずっと犬の鳴き声を聞いていた。
はじめは、それが犬の鳴き声だと、私には判断できなかった。あまりに長くて、しかも途切れなくて、だからはじめは、何かのサイレンか、物音か、風の音だと思おうとした。
だってそれが、生き物から発せられている音だと認識することが、怖かったのだ。
だけどやはりあれは、犬の鳴き声だった。今まであまり思い返そうとしてこなかったがやはりあれは犬の鳴き声だった。
私は一晩中鳴いていた犬が恐ろしくて、何よりその命の行く末に嫌な予感がして、次の日から登校や下校、遊びに行くときは、その空き地の前を避けるようになった。
その空き地を避ける習慣が身について、何故その空き地を避けていたのかも忘れた中学生くらいの頃に、ふと思い出して、その空き地の前を通った。
もうそこに檻は無かった。犬もいなかった。
あの犬は死んだのだろうか。いや、やはりあれは本当に裏の家の人の飼い犬で、あの後室内飼いに変わったのかもしれない。でも普通に考えたらやっぱりあの犬は、私がみつけたあの日に捨てられた、誰かの犬だったのだろう。だからあんなに鳴いていたのだ。あの後二日間は夜鳴いていた気がする。もうあまり覚えていないけれど。何故鳴き止んだのだろう。誰かが拾ってあそこからいなくなったからか。それとも檻の中で死んでしまったからなのか。
私は、この経験のせいで、外飼いの犬が嫌いなのだ。
あの日、檻の中にいる犬のようなものを、しっかり犬だったと確認して、何らかの行動をとって救っていれば、私の外飼いの犬に対する、特に外飼いの犬が小屋の中にいる光景を見た時に想起する不快感は、生み出されることも無かっただろう。
罪悪感があるから、見たくなくて嫌いになったのだ。
嫌いなものの為にものづくりをしたくない。だけど私は外飼いの犬に対する罪悪感のせいで、いつまでも動物との物語を描けない。
だから、嫌いなものを救うために、物語を知りたいと願う。真実私は、あの犬がどうなったのかを知りたかったのだ。
あの犬が幸せになる物語を誰かに語ってほしい。そしたら私は外飼いの犬を嫌いじゃなくなるかもしれないから。
大嫌いだった教員の過去の物語を知りたい。悲しい過去をもっていたら学生時代にうけた酷い仕打ちを許せるかもしれないから。
中学生男子の出てくる物語を見聞きしたい。自身が中学生だった当時は彼らを悪魔のような生き物だと感じていたけれど、中学生男子にも色々な人間がいて、中学生男子皆が皆、私の思っているような中学生男子なのではないと気づけるから。
自身の可能性を潰してくるような家庭環境に置かれた子供が救われる話を書きたい。その物語に触れて、私の嫌いなものがこの世から一つでも減ったら、とても嬉しいから。
きっと、いわゆる性癖、というのは好きという感情だけで構成されるものではないのだ。その人の過ごしてきた人生の中で培われた価値観や感受性、それらが複雑に入り混じってできる、その人だけのこだわり。それが「作者の好み」というカタチであらわれ、作品をより唯一無二のものにしてくれる。
嫌いなものを嫌いでいる為に創作をするのは、なんだか素敵じゃない。
だけど嫌いなものすら救うような物語が書けたならば、とても素敵だ。
創作行為の根源にすべき、自分の中の好き嫌いと向き合っていく行為こそが、自己開示なのだ。