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2F/当番ノート

18歳のわたしへ  〜25歳のわたしより〜

当番ノート 第64期

18歳のわたしへ

借りたトムウェイツを聴きながら2号線のバイパスを走るのもこの2週間だけだろう。その後、わたしは仕事を辞めました。

永遠と思うほどに眠気と身体の怠さが続いていて、毎日指を折って数えて待ち続けた休みはただ寝るだけになっていました。行きたいところも浮かばず、今日あった仕事でのやりとりを脳内で繰り返し再生させてしまうので、力ずくでかき消すように貸してもらった映画を再生します。ベッドに横になり、いつものタオルケットを頭から被って安心しつつ、流れてくる映像に気がついたら夢中になっています。仕事だけではなく私生活、自分の住処でさえ収拾つかずに、散らかりまくっているにも関わらず、そんなことも身体が重くてどうしようもなかった。そういやLINE、返せてないなぁ。次第にまぶたは重くなっていき、DVDを一時停止するためのリモコンは手から擦り落ちる。次に自分の意識が戻ってきた時には、カーテンの外は暗くなっています。あれだけ休日が待ち遠しかったのに、わたしは人が外で活動的になっている空気を感じることはありません。多くの人が家で一日の労を労い、穏やかに休まっている時間から、ようやく活動をし始めます。切らした日用品を買うにしても、ささやかなご褒美との出会いを願うにしても、わたしと相性のいいお店と悪いお店が甚だしかった。こんなに働いているのに、お金を使うタイミングが無くなっていきました。

働き始めてからの1年間は、社会人としての理不尽さを感じることもありました。ただ仕事をやめたのは、そんなことよりも生活を整えるために一度ここでリセットしようと思ったからでした。いや、これはきれいな部分を言っただけかもしれません。わたしには日々の人対人として行う支援に、立ち向かっていく元気がなくなっていったのでした。

仕事を終える一月前。音響の整っているお寺で、Mockyというアーティストのライブがありました。今まで行ったライブとは違い、みんなでスタンディングして、手拍子をしたり、リズムをとったり、全身で音楽を感じながら楽しみました。会場まではいつもお世話になっている人たちと行く予定だったもののタイミングが合わず、わたしは慣れない大通りでの運転が怖いのもあり、一人で電車で向かいました。ライブが終わり、まだ身体から一定のリズムがしていて、音響が心臓をばくばくさせている中、もう少し感じたことを話したいなと思ったものの、みんなと別れて会場を後にする時間になりました。一人の方が、食べようとしていたであろう肉まんをそのままわたしに持たせてくれました。余韻が醒めないままに人混みの飲み屋街、周りを気にせずにもらった肉まんを食べながら、電車の時間を気にして早歩きで駅の方へと向かいました。その道中は、一人で静かで、さっきまでのことが夢のようで、やっぱり寂しくなりました。手に持っている傘は、結局ささなくてよかったけれども、普段よりも傍若無人な傘として、横柄な態度で一緒に歩いていました。

帰りの電車で、いつものように無意識にスマホをスクロールさせていたところ、演劇のオーディションがあることを知りました。今まで演劇の経験はなかったものの、知った途端、さっきまでのライブのようにどきどきしました。スマホを閉じてからも、まだ自分にも演劇ができるかもしれないという事実が心をざわつかせていて、その気持ちは数日のあいだ寝て起きてもずっと続いていました。それで、仕事を辞めてから演劇を始めることを決めました。

仕事を辞めてからの2日間は、泥のように眠っていました。目を覚ますと、力尽きる前にこれだけはと挿したのであろう、一人では買わない花たちが総出でこちらを向いていました。わたしの身体は全身が、今までのあれはなんやったんや?と思うほどに軽かった。そしてさらに数日経つと、今度は暇がわたしに押し寄せてきたのでした。今までが嘘だったかのように、真昼に一人で部屋の中にいることが怖くなっていきました。外は明るくて、学生は学校へ向かい、大人は朝から車を走らせて職場へ向かう。わたしはといえば、涼しい部屋にぽつりといました。久しぶりに時間があるからと、学生の頃、お世話になっていたところへお手伝いに行くもののうまく立ち回れず、よく知らない人にチクリと注意されたり、普通の会話でさえも自分の言葉や振る舞いが空回って、上手くかみ合っていない感じがしました。今は休憩、落ち着いて今後のことを考えていこうと思いながらも、自分が望んだことのはずが、社会から切り離されてしまった感覚が強くありました。

そんな中で、元号が変わりました。わたしは久しぶりに一人旅をしていて、それは初めて泊数を決めずに気ままに滞在と移動を繰り返す旅でした。その日は旅を始めて1週間。金沢にいました。いつの間にかわたしは、移動することに疲れてしまっていました。行きたいと思っていたところをスマホにメモしてきていたにも関わらず、どこかへ行きたい欲よりも疲れが上回ってしまうことは想定していませんでした。せっかく時間があるいいタイミングだったのに、それは予定外の出来事でした。わたしは動きたくなかった。それでも、兼六園が改元にちなんで無料開園で、平成最後の夜と令和の最初の朝に行きました。それ以外の時間は喫茶店で過ごして、そのまま家に帰ったのでした。雨が続いていたものの、久しぶりに雲一つない快晴のもとAir Supply のLost In Loveを聴きながら始まった一人旅は、最後、自分の荷物を荷台に上げられなくなったところで、背広を着たお爺さんに代わりに上げてもらうという出来事によって終わったのでした。最後のさいごに、これで帰ってしまうのが勿体ないと「小出の柴舟」を買い占めたことが電車移動をする上でのネックでした。紙袋は元号が変わった人混みで特にかさばるのでした。

待望の旅に出かけて、思ったよりも早くに帰ってきたわたしは、疲れを取るように眠り、再び暇な時間に押しつぶされそうになっていました。そこで住処の断捨離を進め、「暮らしていく住処」として整えていきました。動きを止めると暇な上に孤独感に苛まれるため、2ヶ月間ほど日中は、来る日も来る日も断捨離をしていました。それ以外の過ごし方は、アルバイトと人との集まり、そして夕方以降にある演劇の稽古でした。わたしは稽古終わりに力尽きて、24時間営業のファミレスへ行くのがすきでした。そこには全てを包み込んでくれる安心感がありました。外国人や、近くの工場勤務を終えたであろう人、大学生、親子連れなどと、日付が変わる時間帯でも誰かしらの出入りがあり、声が聞こえてきます。それぞれの日常があり、それらを背負って来ているのが垣間見れるあの場所にいると、確かにわたしは一人ではないのだと安心しました。

演劇では、電車で他県へ向かい、ストレッチや筋トレから始めて、みんなで歩幅や角度を合わせていく歩行訓練、手旗信号、それを経たのちに劇の稽古がありました。全てが初めてで、泳ぐことくらい久しぶりにわたしを夢中にさせました。そんなことが水泳以外にも見つかるのだと思っていなくて嬉しかった。それでも年齢、職種、立場、方言、バックグラウンドの違ういろんな人がいて、一緒に過ごし続けていると、微差が、次第に大差に意識されていき、いろんなことを比べては落ち込んでしまっていました。わたしは、人前で何かを行う恥ずかしさや不安が人と比べてなかなか消えなかった。次第にお金も無くなっていき、心にも余裕が無くなっていく。自分の役が決まり、みんなで変えながら舞台の全行程が固まっていきました。初日の公演を無事終えてからの稽古では、お金が無かったのでどの回に最低限行かなければならないか頭を使って考えて、稽古に参加していました。

この年、もう一つ欠かせないこととして、人とお付き合いをすることになりました。それは自分で何度考え直してもだいすきな人で、自分から望んだことではあったものの、他者が自身の生活に介入してくることに不安がありました。ここ数年のわたしは、自分があれこれしたいという気持ちだけで突き進んできていました。すきな人といえども、一人の人と関わりを持ち続けることで、自分が手に持てる範囲の興味のバランスを崩すのではないかと思いました。わたしの意欲と衝動が、自分自身を承認してもらえることで全てどうでもよくなってしまうのではないかと思うと不安でした。

わたしは丸亀製麺で、「ぶっかけうどんの並、あったかいの」と頼むことしかありません。その人は、期間限定の鍋焼きうどんとかも食べることができるのです。その人と一緒に過ごして、その人の反応を感じ取る中で、わたしの話を本当に聞いてるのか聞いてないのか分からないことがあります。わたしは絶対に、ぶっかけうどんの並、あったかいのしか食べたくないのだけれども、その日は、わざとわたしも鍋焼きうどんを食べたいような雰囲気を出して、その人が食べている様子をみていました。そうすると、ちゃんとその人は自分の鍋焼きうどんをくれたのです。別に、今まで人がどうであろうと、自分が決めたこと以外はなんでもよかったのに、ましてや人が食べているものをそんなにうらやましくなることもこれまでありませんでした。だって、自分も今、まさに食べているから。それなのにその時は、漠然とした不安感が襲ってきて、コントロールがつかなかったのでした。そのように人のことを確かめたくなったのははじめてでした。

そうしてわたしは自分の輪郭が分からなくなり、バランスを崩していきました。

そうしているうちに、演劇の舞台も全公演終わりました。寒くなった頃、有り余る時間の中で、バランスも崩して自分に嫌気がさしている頃、資金繰りに疲れ、本格的に仕事を始めることを決めました。年が明けて一月末、じいちゃんの家でじいちゃんとニュースをただだらだら見ていました。そして、「コロナウイルス」という言葉が出始めて、それに身動きが取れなくなりはじめた頃、ようやくわたしは正社員としてまた社会の一員として、正式に身を置くことになりました。雑用ではなく、お節介でもなく、確かに人の役に立つということ、そしてそのことでお金をもらえて暮らせるということが、こんなにも嬉しくて、安心すると感じるとは思わなかったです。

そんな25歳のわたしです。

この一年、いろんなことがありました。ちゃんと会いたい人に会って、伝えたいことは伝えて、行きたいところに行きたいタイミングで行っとけよ。

それじゃあまた、お元気で。

25歳のわたしより

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