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3F/長期滞在者&more

見たこともない光景を夢が先に知っている

長期滞在者

尼崎から大阪梅田まで十キロ、その梅田に向かう道、もしくは梅田からの帰路。
自転車で行く阪急電車沿いのとある駅間。
高架になった線路の下をくぐる架道橋(トンネル状の通路)ごしに見える小さな古いコンクリの建物があり、自転車で通過する間だから見えるのはほんの数秒のことなのだが、毎回その古い建物を見るたびに、強烈な既視感に襲われる。
毎回毎回その建物の一階部分(架道橋越しなので一階部分しか見えない)を見るたびに記憶の奥底に向けて何か線を刺されるような通感があり、あまりに毎度なものだから、あるとき架道橋を潜ってその建物の前に立ってみた。
ものすごく、知っている建物なのである。
二階建てのコンクリート造の建造物。住居ではなく、何か事務所的な使い方をされているように見えるが、看板などはない。
外観しか見ていないのに、その建物の二階に上る階段の様子が頭に浮かぶ。踊り場から上がって二階の外に見える景色までがありありと頭に浮かぶのだ。
どうして僕はここを知っているのだろう。
大学を中退してからいろいろな職種を経てはきたが、この駅近くで働いたのは今はもうないとある食品工場だけで、駅からの方向も反対だ。当時はここを通ることもなかった。

僕はここで働いた覚えはない。
・・・そう、現実には。

そうだ。
少し、ほんの端緒を、思い出しかけている。
僕はここで働いたことがある。そういう気がする。

ただし夢の中でだ。

夢の中で、ここに何かの事務所があった。そこで僕は何かのアルバイトをし、バイト仲間と踊り場で話をし、二階からの風景を見た。
何か物を運びながら見たその踊り場からの光景が、模糊とした不定形から、じわりじわりとレンズが焦点を合わせていくように記憶の中に立ち上がる。どうやら四、五年前に見た夢だという距離感まで鮮明になってきた。そうだった。僕は夢の中でこの建物の中にいた。
記憶を整理してみる。
現実の記憶に照らす。僕はこの建物の一階部分を知っている。自転車で通過する架道橋の向こうに数秒間見えるからである。そういうレベルでいうならば、もう何十回も見ている。
僕は今までこの架道橋を潜って、その建物の側に出てみたことはなかった。現実の世界では。
この建物の中で働く夢を見たのは、実際、現実的にこの架道橋の向こうに見える建物の姿が記憶の隅の隅のどこかに残存していたからだろう。現実には一階部分しか見えないのだが、それしかないはずの記憶から、夢はその他の情報都合よく組み合わせて一棟の建物を構築した。上の二階部分を夢(脳)は勝手に組み上げている。
恐ろしいのは、脳が勝手に組み上げたはずのその建物の一階以外の外観が、実際建物の前に立ってみたとき、そっくり記憶のそのままだったことだ。そして実際に上がりはしなかったが(玄関が閉まっていた)、階段のつき方から想像して、ちゃんと夢の中で知っている踊り場と上がった先の二階部分廊下から見える外の風景が、ちゃんとそこに見えそうなのである。
一階部分の情報のみで夢(脳)が勝手に組み上げた建物が、現実世界でもどうやらそのままそっくり続いているらしいのだ。
見たこともない光景を夢が先に知っている。
そんなことがあるのだろうか。

たぶん、だけれど、種明かしはあるのである。
別にオカルト的な話でもなければ、言葉通りの夢物語でもない。
何十回も通過して記憶の棚の片隅に埃のようにたまった小さな情報から、夢(脳)が建物全体を勝手に組み上げて、その中で夢を展開する。
僕はその夢を忘れる。
そしてあるとき、実際に架道橋越しにまたその建物の一階部分を見て、その昔見た、その建物の登場した夢との切れていた記憶の配線が繋がる。
僕は夢と目の前の建物の一致に驚く。
ものすごくつまらない結論を書くけれど、たぶん、夢というのは決まった形に定着することなく動き続けるのだ。それは数年前に見た夢で、もう「完了」しているように思えてもだ。
実際の建物の前に立った段階で、四、五年越しに、その夢はようやく形となったのである。実際にその建物をみた、夢から四、五年経ったそのときが、夢の結着地点だったということだ。
記憶の中にあった夢の模糊とした形に、たぶんそこまでリアルな建物の細部はなかったのだ。細部はなかった、は正確ではないかもしれないな。細部はあったかもしれない。しかしそれは置換可能な、揺れ動く細部だった。

実際に建物を見たから、その時点で、夢の記憶が完成したのだ。

夢の中で僕はバイト仲間と踊り場でなんらかの話をし、その話をしながら二階からの風景を見た。その踊り場と外の風景は、現実にその建物を僕が外から見たときに、四、五年越しにようやく確定した夢の細部である。
もちろん無意識である。その建物の前に立った僕は、夢がたった今組み上がったことも気づかずに、四、五年前に見た夢と目の前の建物がそっくりだということに、ただ驚く。
たぶんそういう仕組みなんじゃないだろうか。

書いてしまえばつまらない話だった。
しかし夢に限らない話でもある。
僕らのすべての過去の記憶が、確定せずに動いている。たえず変化し続けたり成長したり、逆に単純化して固化したり、まったく性格を変えてしまっていたり。過去じたいが動き続けているのだと思う。
固着した過去なんか存在しない。
そして過去は、歴史年表のように線上に過ぎ去りはしない。過去になったとたんに等しく、遠近の差異なく過去になる気がする。
昨日のように思い出せる二十年前と、昨日なのに思い出せない過去は、等距離の過去なのかもしれない。

KMN_0942

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

「過去には遠近の差がない」「動き続ける過去」と書かれているのを読んで、長い電車を思い浮かべた。
人生における様々な経験は、電車のような姿なのかも、と。

夢を「経験」と呼ぶのは些か乱暴かもしれないが、夢とて、夢なりの体験や体感を有するものだ。
疑似体験、というものであるが、それは読書などとも似通ったものであるだろう。

疑似体験と現実の体験のそれぞれが交互に連結した長い電車。

電車は受容体であるあなたを乗せて走り、あなたはその内部を行き来する。

窓から見える景色も、電車の中で感じる揺れも、一つとして留まることはない中にいる。
歩き回る自分は過去も今も未来もそれぞれであって、思い返しても予測しても、そうする今は今でしかない。

過去はまた再び足を踏み入れることはなくとも、経験の数だけ静かに連なり続けながら、同じ速度で今乗る車両のはるか後方を未来へ向かうひとかたまりとして共に走っていく。

電車の連結部というものは、外からはなだらかに繋いで見せているが、内に立てば揺れやすいものだとわかる。

その揺れが見せた少し不思議な錯覚を、今度は読み手であるわたしたちが疑似体験し、今もこうして一つの車両が連なってゆく。

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