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3F/長期滞在者&more

4月にも時々雪は、降ってます。

長期滞在者

4月末にこれを書いているわけだけど、ブリュッセルは時々雪もちらつく荒れ模様。寒い。プリンスが亡くなったものだから、フェイスブックには「Sometimes It Snows in April」とコメントされた降雪動画がヨーロッパのあちこちからアップされている。

この曲が収録されたアルバム『パレード』が発売されたのは1986年の春だったらしい。ちょうど30年前(!)ぼくが大学に入学した年だ。確か、スティングが初めて出したソロアルバムと一緒にCDを買って小竹向原の狭いアパートに持ち込んでいた小さなプレイヤーでその二枚を延々と繰り返しかけていた覚えがある。

ぼくは元々音楽にはあんまり執着はない方だと思う。でも、(『スリラー』までの)マイケル・ジャクソンやデヴィッド・ボウイやプリンスとかは別格だったのだなとここのところの訃報の連続で思い知らされる。自分のダンス作品の中で彼らの曲を使うような危ない橋をわざわざ渡ることはしなかったけど、週末ごとに踊り明かしていた頃にどれだけ彼らの曲に身を任せ委ねて染み込ませていたことだろうか。プリンスの「キス」に匹敵するような、いい意味でいやらしくてすけべでスマートでクールな曲はスヌープドッグの「Drop it like it’s hot」までなかったと思っている。そういえば、ダンスカンパニーで踊ってた時に、年度末プレゼントとかで振付家から他のメンバーと一緒にプリンスの『3121』をもらったこともあった。今でもドライブ中によく聴いている。

RIPなんて書いて、いかにもプリンスのことを常に気にかけていたようなふりはしたくないけど、亡くなる直前には何日も徹夜を続けて仕事をしていたというニュースも読んだし、あの世なんてものがあるんだとすれば、そこで身体的物質的な束縛から解放されて心置きなくかっちょいい音楽を作り続けて欲しいと思う。

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前々回、ダミアン・ジャレの映像作品について書いた時にまた考え始めていたことなんだけど、日本っていうのはこれだけハイテクで洗練された文化だとか産業システムだとかを発展させ続けているのに、未だに原始的なというか古代的なアニミズム的な文化がしっかり残ってて、やっぱ不思議な国だ。

そんな風に他人行儀な感想じみた考えをほんわりバックグラウンドに漂わせながら、たまたま村上重良の『日本宗教事典』(講談社学術文庫)を読み始めたら、冒頭にいきなりこんなことが書いてあった。

「日本の宗教は、縄文晩期、弥生初期の紀元前3世紀頃から始まる稲作りの農耕社会の成立つとともに基本形を形成した。
 日本の固有宗教は、生産と生活の共同体によって営まれる農耕儀礼を主体とし、アニミズム、自然崇拝、祖霊崇拝、呪術が発達した多神教であったが、古代国家の成立過程で、固有宗教に北アジア系のシャマニズムが複合し、日本宗教を一貫する呪術的シャマニズム的性格が形づくられた。」

そういえばこんな本買ってたなぁ、ちょっと読んでみっか〜、みたいな感じで、ほわほわと隙だらけだったところにこの「日本宗教を一貫する呪術的シャマニズム的性格」ってところが出会い頭にクリーンヒット。こめかみあたりに綺麗にフックを決められたようにクラクラした。この本は古代神道から創価学会あたりまでを網羅しているんだけど、その上であえて「呪術的シャマニズム的性格」が一貫してってことは未だに日本の精神文化にそういう性格があるって言ってるわけで、なんかすげえ。えー、まじっすか?みたいな。この情報の何がすげえのかってのは学者でもないからちゃんと答えられるわけもないのだけど、ただ、大友克洋の『アキラ』があんな感じだったり、士郎正宗の『攻殻機動隊』があんなで草薙素子があんな風になっていったりしたのもなるほどそのせいか、あぁほんじゃあ『まどマギ』もそういうことか、とか、そもそも魔女っ子系って本地垂迹みたいなことなのかもとちょっと横道に逸れてみたり、とか、キャシャーンとか仮面ライダーなんかの人造人間の物語は人間が機械に憑依されてるってことなのね、とか、憑依ってことで言えば『デビルマン』『寄生獣』とかシャーマン系の物語なのかもね、じゃあマジンガーZとかモビルスーツとかエヴァンゲリオンとかの搭乗しちゃう系ってどうなんだろう、とかとか、こういう多くの研究と深い洞察による直球な情報って、より深い理解とかその先の仮説に向かって道筋をズバッとつけてくれるわけで、しかもこの文意を勝手に展開してしまえば、ああいうマンガ・アニメ系の文化的表象が単なるファンタジーとか妄想とかじゃなくて、実は連綿と引き継がれてきた精神文化の現代的表象として出現したって解釈にも発展可能なわけで、ああいう漫画的世界観が実は現実の社会の有り様にも直結しているはずだということをこの短い情報で示唆することもできるのだろうなあと勝手に納得出来るあたりが、この引用文のすげえことなのだろうとは思う。要はかなり個人的なモヤモヤが一気に解消されたのがすげえところなのだろう。なんともまあ手前勝手なことだな、おれw
(もう一つこの引用部分を読んで驚いたのは、この文意からすると、例の火炎式土器が出土している縄文中後期の精神文化はおそらくその後の日本文化と断絶しているものを持っていたであろうと推察できることなんだけど、じゃあ、その断絶以前はどんなだったんだろうとか考え始めても資料もないし結局妄想に終わってしまうので深入りしないことにする。)

ではついでに同書から次の引用。

「日本の宗教思想においては、神観念は多神教が支配的であり、呪術性、シャマニズム、権威主義の傾向が一貫しており、家を単位とする祖霊崇拝が共同体と国家の祭祀に連続している。シャマニズムと呪術に支えられた人神観念、生き神信仰は、超越的存在と人間との連続を意味する神人合一、即身仏等の観念の発達を促した。」

「権威主義」が縄文晩期から連綿と繋がってるのかぁ、日本ってずっとそうだったんだなあ(例えばの話、弥生式家元制とかあったんだろうか…w)、と思うと同時になにやら父権制がすぐに思い浮かんじゃうのはぼくだけではないと思うんだけど、そこはどうやらそんなに単純なことではないのかなあと思ってしまう。
やきもののことに無理矢理話を持って行ってしまうけど、須恵器が登場してそのための高温焼成が可能な窯が登場するまでは、おそらくやきもの文化を牛耳っていたのは女性だと思う。それは今でも野焼きなんかで低温焼成する陶器を作っているアフリカや南米や中東あたりではやきもの作りは主に女性の仕事だってことを鑑みての想像なんだけど、多分間違いない。そういう原始的テクノロジーみたいな領域を女性が仕切っていて、しかも土偶とかはほとんど女神の像。してみれば当時は母権社会だったんだろうって想像してもそんなに無茶なことではないだろう。(とりあえずバハオーフェンとかを前提にしてはいますが、別に学術論文を書いてるわけでもなし、大雑把な感じで行きます。)それで今思い出したんだけど、トルコ辺りに行くと、父親のことを「ババ」と呼ぶけど、さらに長老的な人に対しても「ババ」という呼び方をする。日本では老婆で権威のある感じの人を「ババ様」と読んだりする。アルタイ語族に分類されているトルコ語と日本語に何らかの関係性があったとすると、この「ババ」(=族長的権威のある人)という尊称が女性に付されているということは、やっぱり古代の日本において部落の長になるのは女性だったんじゃないかなあ、とか思う。
とすると、「呪術性、シャマニズム、権威主義」の三つとも女性性に関わってくることなんじゃないかな、と。つまり、この三つが傾向として一貫してるのだとしたら、日本の宗教文化の根っこにはやっぱり女性がでーんと居座っていらっしゃるのだろうなと。そんなだから、例えばの話、「保育園落ちた日本死ね!!!」という叫びをないがしろにしているとえらい天罰が下るかもしれませんぜ、日本の政治家さんたち(これ読まねぇだろうけどw)、とか思う。
で、どこかのタイミングでこの「権威」が男に取って代わられる(ように見える)時期がくるわけだけど、それがどこら辺りなのかが気になる。たぶん高温焼成窯の技術が入ってきた辺りじゃないのかなあ、と想像してみたりする。では、その頃にどんな歴史的出来事が起こっていたのか。調べたら面白そうではある。でも今はやめとく。

で、引用三つ目。

「家と共同体を単位とする宗教生活は、祖霊と地縁的血縁的な神の信仰に発する報恩、孝などの宗教的倫理を育て、その延長として国家への忠誠が位置付けられた。この構造は、世俗的な生活倫理全体の宗教化をもたらし、宗教と世俗との境界を作らない神人合一的な宗教倫理を形成した。この倫理観は、キリスト教に見られるような、原罪観念に立つ人間と神との交わりから導かれる内面的主体的な宗教倫理の形成を困難にした。」

明治維新が失敗したなあと思うことの一つに「市民」という概念を輸入し損ねたことだと常々思っているんだけど、ここですな、要因は。内面的主体的宗教倫理なんてないんだから、よっぽど教育システムをがっちり作ってキリスト教っぽい思想に洗脳するくらいの勢いでやらなきゃ「市民」なんて概念、日本人には浸透するわけないんだね、やっぱり、とこれ読んで思ってしまった。律令制を取り入れた時だって科挙はやらないわ、それどころか蔭位の制なんていう裏口入学みたいな制度をくっつけちゃうわ、公地公民制も実はちゃんとはやらなかったっぽいわで、当然大して機能しなかったわけで、そんな律令制度が実質200年くらいで崩壊してたことを考えたら、西洋的政治の核である「市民」を取り入れられなかった延長でできてる今の政治形態はもうそろそろ崩壊してもしょうがないんだろうなあ、とかまた思ってしまう。早く一回壊れちゃえ、とか。
悪態ついてても不毛なので、もっと面白いところを最後に見ておくと、この中の「この構造は」以下「形成した。」までのところ、興味深いですね。侘び茶がほとんど宗教みたいだと言われるのもこの構造に関係あるだろうし、茶道とか華道とか書道とか武士道とかいうときの「道」ができちゃうのもこれがあるからだろう。
キリスト教とかの一神教だと特に現世と天国って全然違う世界だけど、日本の場合、高天ヶ原が典型だけどあんまり現世と変わらない世界に神様たちが住んでたりする。こっちとあっちがはっきり分かれてなくて、むにゃむにゃとなんか呪術的(もしくは、どこでもドア的に?)に繋がってるんだろうって気がする。こういうことが精神的基盤にあるから、日本では芸術品と日用品が分かれなかったんだろうなと思う。西洋的な意味での芸術になっても宗教になっても日本ではなくなるんだろう。あっちとこっちの境がない感じ。境がないから油断も隙もない。日本の思想空間にあっては一休の「ご用心、ご用心」が本来日常なわけで、突然いつ神様がハローとかアロハ〜とか言いながら訪れるかもわからない。突然いつ自分の居場所が神聖な場所になるかもわからない。日本の工芸品の美しさってのはそういう切羽詰まった空間意識の中で研ぎ澄まされていくものだろうなあ、とか思う。あ、やっべぇ。今書いたところからなんかスーフィズムがちらついてきた。そこ出てくんなよもぉー。キリねえじゃん。

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ひだま こーし

ひだま こーし

岡山市出身。ブリュッセルに在住カレコレ24年。
ふと気がついたらやきもの屋になってたw

Reviewed by
カマウチヒデキ

日本の祖先崇拝と共同体・国家の祭祀が直結している、というイメージはわかるんだけど、いまいち理解できないのは、江戸時代すぎると「お家存続」が第一義になり、そのためには血縁とか実はあまり重要ではなくて、切れそうになったら養子でしのいじゃう。現役藩主が突然死したら、いったん死を秘して家督を譲る手続きを済ませてから死を公表する。なんせ途切れたらそこで終わりのデスマッチ、お家断絶になれば家臣団もろとも(藩主が社長で家臣が従業員というイメージなら、まさに会社まるごと)その土地から追い出されるという、なんていうのかな、すでに祖先崇拝的なものが形骸化して「お家ゲーム」化しちゃってるように思える、そういう奇妙さです。

母系から父権制に移行したタイミングからゆるやかな形骸化が始まり、そのうすら寒さを補完するかたちで共同祭祀的なものがじんわり浸透していくのかな、なんていう、ど素人考え。

血肉を感じざるを得ない母系ラインと、ある種のフィクションですらある父系ラインのいかがわしさに、乗っかりつつもある意味醒めていたような、したたかな日本人像も浮かんだりして。

等々々々、いろいろ考える種が、今月も随所に蒔かれた、ひだまさんの文章です。

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