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2F/当番ノート

18歳のわたしへ  〜27歳のわたしより〜

当番ノート 第64期

18歳のわたしへ

一人暮らしはしんどいです。産まれた地からわざわざ離れて、すぐには帰れないくらいまで遠くへ来てしまった。そこで朝から晩まで働いて、疲れきって一人暮らしのアパートへ戻る。休日は平日のたまった家事をして、その延長で、以前から気になっていた部屋の一角を片付け出したらあっという間に日が暮れています。地元を出ることや、一人暮らしをすることは当たり前であるという認識だったのは、なんでなのでしょう?このご時世、ごく僅かな遊んでくれる友だちとは会えず、たまに誘ってもらったりしても疲れていたり、この休みの後の平日を想像すると断ってしまうことがあります。

馬車馬のように働いているのは、会社の偉い人のためなのでしょうか?先生の言う通りに勉強してきた結果、がむしゃらに泳いできた結果、ただただわたしの忍耐力が鍛えられ続けてしまったのでしょうか?「生活をきちんとしよう」という意欲はなく、ただ疲れて寝ているだけの休日。ただ奴隷のように働く。これから先のことは想像がつかない。なんでこんなことになっているのでしょうか?

心が荒んでいて、腐っているのが27歳です。もうなんでもいいのだと、一人暮らしだから、独身だから、法定労働時間とか知らないふりをして、休日も予定がないからと出勤して、がしがし働き続ける身分でしかないのだと思っています。心に余裕ができるような生活が、わたしにやってくる日は来るのでしょうか?きっと何かを諦める必要があるのだろう。わたしにはどうやりくりしたらいいのかが分かりません。

年が明けてまもない頃、じいちゃんが死にました。ガンでした。コロナウイルスが収まることなく一年が経とうとしていました。あえてだったのだろう。なんとなくここ最近の両親は、じいちゃんの調子を言いませんでした。

じいちゃんが年を越せるのはこれで最後かもしれないなぁと、雪が降る前最後のまとまった休みに運転して帰省した10月に思いました。わたしには、あとどれくらいじいちゃんが生きられるのかを聞く勇気はありませんでした。

今まで台風や大雨で交通機関が途絶えたり、それ以上の大ごとが起こる可能性があったりしても、それらの不安は振り切って、どうにかして帰省していたわたしだったため、大雪が降っている今回も結局は帰省できるのだと思っていました。一人暮らしのアパートから駅に歩いて向かう最中に、母に電話で「今から帰るから」と伝えると、スマホに耳を近づけなくても聞こえるくらいの声で、ぎゃんぎゃんと大反対をしてきたのでした。電車の時間が迫って来る中、防寒のためにカイロを貼って着込んでいながらも、風が強くて大荷物で歩くのはただでさえ消耗する。住宅街を歩いている時に、大声で母に言い返すのも面倒になり、わたしは年末の帰省を初めてやめたのでした。片手にさげた紙袋にはお土産が詰まっていました。誰にあげるか考えながら買った、箱の大きさもその中身もばらばらなそれらをみるとばかばかしくなりました。どう考えても、ゆっくり帰省して過ごせるくらいのまとまった休みは当分ないのにな。

1週間後とかにこっそり帰ってやるんやからなと思っていました。しかし、わたしは久しぶりの映画部の集まりがたまたまそのタイミングにあり、嬉しくて参加していました。その日から次の休日が来る前、わたしは帰らずじまいになったまま、母からの電話でじいちゃんが亡くなったことを聞いたのでした。

子どもの頃は週末になる度に、母方のじいちゃんとばあちゃんの家に当たり前のように行っていました。四六時中よく喋って、美味しいものを作ってくれるばあちゃん。寡黙ながらも、一緒に溝にいるカニを自作の罠をつけた棒を使って捕まえに行ったり、釣りに行ったり、ただエサを買いにいくのについて行ったり、近所の池のコイに知り合いやからええんやと勝手に餌をあげに行ったりと、外でわたしと弟を連れ回して遊んでくれたじいちゃん。ずっとよくしてくれていた身近な人の死だから、このご時世でもさすがに帰省できると思っていました。でも出来なかった。普通にその日も嘘みたいに働かされ、その1週間後には、都心から出張で来た人を迎えたりしていた。なんでや。私的な移動はだめで、会社の移動はいいのですか?どこの基準でそうなってるんですか?わたしに気づかれないようにこっそりとやってくれよ。結局、それは会社の上の人の都合で、やっぱりわたしも自分の気持ちを押し通して帰省したらよかったなと思いました。その後、会社の上の人の身内が危篤になった時、名目を伏せた上で帰省していたことをわたしは知っている。こんな場所でわたしの労力も時間も費やす必要はないのだ。ばかばかしい話だ。

27歳。高校の時の同級生よりも1年遅れて、社会人4年目。友だちとも会えないし、元気がなくて会わない。彼氏ともうまくかみあわない。わたしは、周りの人のことを祝福できなくなっていました。

病院で会社の健康診断がありました。まとまってみんなで受けるのですが、待ち時間にその後の連休に何をするのかといった、ごく自然なたわいもない話をしていました。その方たちは、冷蔵庫を買いに行く、ゴルフに行く、子どもと一緒に遊ぶなど、ちゃんと予定がありました。今までだったら、心を許せる人たちばかりの話は普通に楽しめていたし、自然に聞き流せてもいました。けれども、今のわたしには全然無理でした。わたしには4連休、予定は一つもなくて、いつも通り、行き当たりばったりに映画を観るか、アニメを進めるか、どこかで本を読むか、元気になればどこか遊びに行くかくらいに思っていました。

そもそもこのコロナ禍、もはやみんな、人と関わることが減っていたと思っていたのに、時間が経てばそんなこともなく、ちゃんと楽しく過ごせている人が多くて、羨ましさと疎外感を感じていました。いつの間にか結婚したり、妊娠したりと、生活が変わっていく人たちが身近にいて、あっ、みんなちゃんと歯車がかみ合って生活できてるんだなぁと思ってしまいます。そんなこともある中なので、話を聞きつつも、ちゃんと防御しないと、身晒しになったまま心は死んでしまうので、期待に沿わない反応をあえてし続けています。わたしにそんなことを話かけるなと。

そういうことが続いてなのか何が理由か分かりませんが、休日、予定のない空白の時間が続くほど、それに耐えられなくなってきていることにも気がつきました。余白に耐えられない。長めの休みがあれば、とりあえず帰省するようになりました。

普段の休日は、時間が足りないと思うほどやりたいことはたくさんあります。今、ドラゴンボールを見始めてしまったので、長めの休みがあれば物語をしこたま進められるし、飽きれば気ままに気になっていた映画も観たり、それにも飽きたら本も読んだりできるから時間をうまく使えるとは思います。それでもそういう過ごし方で連休の最終日が終わってしまうと悲しくなるのです。普段の休日よりも長い時間がある分、進められたことはたくさんあって充実していて楽しかったはずなのに、誰かに楽しかったことを言ってしまうと悲しくなってしまいます。誰にも誇れないからなのでしょうか。人に話したときの反応がイマイチだからでしょうか。そういうことが続くので、いつも誰かに休みの過ごし方を聞かれたら「断捨離しました」と答えています。

仕事で同じ立場の人がミスをして、辞めざるを得なくなってしまいました。本当にその人だけが悪かったのでしょうか?

ネイルしましたとか、料理に今ハマってますとか、そういうことをわざわざ言う必要があるのでしょうか?

27歳は、わたしは止まったままだけれども、いろんなことが周りで起こっていて、気持ちが巻き込まれることが多いです。そしてそれが積み重なるなかで「媚びたくない、強くなりたい」と思うようになりました。それは髪を切った理由の一つでもあります。何のためのわたしですか?誰のためでもなく、わたしが納得のいくように、まずは形から、態度として、もたれかからず強くならないとと思ったのでした。

高速道路で車を走らせながら、実家から自分の今の生活があるところに戻っている途中、「なんで帰らなあかんの?」と急に思い、泣きながら運転したことがありました。いつの間にか、地元の言葉やイントネーションも薄れていったりしています。

親元を離れ、新しい人に出会ったり、今まで知らなかったものに自分の興味で触れ続けていくという年月を重ねていくと、実家に帰った時、わたしは親とは別の人間なんだなと思うことが増えました。わたしの好きな映画や有名人は、親は嫌いだったりします。それだけではなく、ものの見方も違ったりします。

記憶違いかもしれないけれど、「影響を及ぼす」ということは、「後戻りできなくなる」ということだと聞いたことがあります。それを聞いた時、わたしは、「ライフスタイルが変わることで、後戻りができなくなる」ということだと思っていました。しかし、「考え方が違う」ということで、身近な人をこんなに遠くに感じるとは思いませんでした。地元へ戻ったとき、衣食はできるけれども、根を生やして住んでいくことは今後できなくなってしまったなぁと、今のところ思っています。

産まれた地で生活を再開するという後戻りはできなくなってしまったように思います。でも親元にいるだけでは気が付けなかったわたしがいることを知りました。人に言える感情よりも、言えない感情の方が、自分でも操縦しきれないほどに今、渦巻いているように思います。でも、それを捨てきれない自分がいます。外に出てから今までで見つけた興味や感情を持って、ここからもすきなことを続けたり、思いついたことをやっていくことで、これからを開拓していくことにしたいと思います。わたしはなんのために生きているのだろうか?

職場の誰かのライフスタイルが変わることで、誰かが上の人ともめることで、誰かが精神的に不調をきたすことで、わたしは仕事を辞められません。いい子ぶってしまう。変に我慢強い。働き方に疑問を持ちながらも、慣れてきてしまっている。かろうじて外では不調をきたしていません。

27歳は母がわたしを産んだ歳らしいです。わたしはこんなに葛藤があり、ずっと変わらずに言うことを聞かない大わがまま小娘なので、その事実に驚きます。いろんな葛藤があるなかで子育てをしていたのかと思うと、ひしひしと痛みを感じます。もろすぎん?かよわすぎん?それを隠して過ごしたってこと?そもそもそれどころじゃなかったってこと?
年々、「母」という存在の重みにありがたい気持ちが増していく感じがしています。母でもあるけれども、一人の人間としていられることができた時間はあったのだろうか。

祖父母の家の取り壊しが決まりました。週末に過ごしたあの場所での記憶はなくなっていくのでしょうか?親戚やいとことはもう集まれないのでしょうか?忘れたくはないので、壊されるまでの間、写真を撮りに帰り、文にしていこうと思っています。

夜中3時にアパートのインターホンが急に鳴りました。映画は任侠物とかすきなのに、結局こういうことがあったら怖いんやなと思いました。弱い立場なんですね。嫌やけど。

美容院に行く前に髪を気にしていたら、初めて白髪を見つけました。即、抜いた。痛かった。これは、心の痛みも込みの痛みだと思いました。当たり前だが、老いていくことを自覚しました。

映画や音楽、本、漫画などたちは、歳を重ねる毎にその知識が蓄積していき、その”知識の木”の年輪は少しずつ太く、確かなものになってい来ます。「もうこれはいいかな」と、興味が枝分かれしていったかと思えば、思わぬところで重なっていたりする。木の範囲が少しずつ広がっていく。歳を重ねる中で、これだけは安心できる事実で、拠り所です。

とりとめなく書いてしまいました。わたしもまだまだ消化できていないことが多いです。

最近、妊婦になったからこれまでとは違う側面で母のことが分かったという人の言葉を会社で聞きました。子どもと日々接しているため、その言葉はひしひしと胸に迫ってきました。誰もがおおやけに祝福していい言葉ばかりで、お手本みたいな言葉でした。泣きながら、バイパスを飛ばして運転しつつも、信号待ちで弁当を食べながら、午後からの仕事を急いで再開した日でした。いつまでこれは続くのだろう。

母になったから言える言葉があるのであれば、わたしはわたしの言葉で今のことを書き留めたい。いいことも、言えないことも、今まで知らなかった感情を忘れたくはない。

うまく感情を乗りこなして、心が穏やかな日が多めになったらいいなと思います。

そんな日が続かなくても、わたしは自分の感情を「こんなこと思うと思わんかったよな〜」と認めて、静かに祝福していきたいと思います。

「どこかに行かなくても、なにかを買わなくても日記は書けます」「お世辞はいらん。思ったことをそのまま書きなさい」と小中学生の頃、いろんなタイミングで担任に言われました。今もそれは同じでいいはずだ。

しぶとく生きてやろう。

また書きます。

お元気で。

27歳のわたしより

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