当番ノート 第39期
「魂に触れる」 谷川俊太郎 軽いやわらかい毛布の下に 恋人のあたたかいからだがあって ふたりは手をつないで仰向けに横たわっている ふたりの目は白い天井に向けられていて どこにも焦点をむすんでいない モーツァルトのケッヘル六二二のクラリネット協奏曲 第二楽章アダージョが聞こえている初秋の午後 若い彼らは完璧な幸せがもたらす悲しみに それと気づかずに浸っている 「昨日またサリエリに会ったよ」と男が言う…
当番ノート 第39期
「いや、ほんとにあんな好青年は見たことがない」とサー・ジョンがくり返した。「去年のクリスマスに、うちで小さな舞踏会を開いたときも、午後八時から午前四時まで踊って一度も腰をおろさなかったんだ」 「えっ、ほんとに?」マリアンが目を輝かせて言った。「最後まで優雅に元気よく?」 「もちろん。しかも朝八時に起きて、馬で狩猟に出かけたんです」 「私、そういうの大好きよ」とマリアンが言った。「若い男性はそうでな…
当番ノート 第39期
あとわずかの高校生活、残るイベントもあとは卒業式だけになった頃、東京の大学に合格が決まった。 その晩、突然母が髪の毛を染めてほしいのだけどしてもらえない?と言った。髪の毛を加工することが嫌いな母は、これまで美容院に行ってもカット以外ほとんどすることがなかった。そんな母が髪の毛を染めるなんて一体どうしたのかと尋ねると、前々から白髪が目立つようになってきてな、と言った。母はずっと黒くて丈夫な髪の毛が自…
当番ノート 第39期
ハロー。 僕は今、香港に来ています。 香港は20歳になる時に来て以来、2回目になる。 近くて遠い、いつも特別で憧れがある。 王家衛の映画の影響が強いんだろうと思う。 僕の場合は「天使の涙」がとても好きで。 この映画のラストシーンは最高だよ。 香港は大きく分けて二つの島、 九龍と香港にに分かれていて、 僕は香港側に滞在しています。 日中はそれはもうとても暑くて、少し歩くだけで熱気と湿気で息苦しくなる…
当番ノート 第39期
タンゴのレッスンに通うようになって3ヶ月ほどが経つ。 まだ3ヶ月なのに、もうタンゴ無しの生活が考えられない。家でも毎日のように練習しているし、音楽も聴き続けている。最近レッスン仲間もできて、教室に行くのが毎回楽しい。本当に、道中スキップしてしまいそうに楽しい。なのに教室のあるビルに入るその瞬間には、まるで面接を受けるときのように緊張して憂鬱にもなる。先生に姿勢を注意されてはうなだれ、褒められて…
当番ノート 第39期
多分、世界は美しいもので満ち満ちている。 それは心地よいものだけじゃなく、目を背けたくなるようなものも含めて。 それを絶えず見つけ続けること、そして人に伝わる形で残していくこと。 そのために自分と世界をむすぶフィルターをしっかりと保つこと。 18歳の時に自分とした約束だ。 写真の面白いところは、見返すたびに新しい気づきがあること。 撮った時の新鮮な感覚や記憶は徐々に失われていく。その分、撮った直後…
当番ノート 第39期
いま私は、生涯でいちばん頻繁に男性と抱き合っている。 ふとそう思いついたのは、5回めか6回めのレッスンを受けたあたりのことだっただろうか。 その発見に、夕暮れ近づく大通りを歩きながら吹き出してしまった。 毎週、何人もの男性とかわるがわる抱きしめあっている自分……。 こんな自分の姿は、今まで一度も想像したことがなかった。 改めて引いた目で見てみると、やっぱりちょっとおもしろい。 *…
当番ノート 第39期
早いものでこの連載も折り返しを過ぎました。 徐々に温めていくということがなく、初めからアクセル全開だったので、続けて読んでくださっている方は少し息切れがしてくる頃かもしれません。今回と次回は少し気分を変えて、「写真」について扱ってみようと思います。 どんなことを書こうか、ずいぶん悩みました。 でも、なるべく先入観をなくして見てもらいたいと思うので、今回は写真をメインにして、文章はあんまり書かないで…
当番ノート 第39期
ハロー。 今はもう夜中の2時。部屋の明かりを落として、小さな音でFMをかけながらこの手紙を書いています。僕の住んでいるところは夜がふけるにつれて周りの音がしんとして、こうして夜中まで起きていると、僕とこのラジオのパーソナリティだけが存在しているような、そんな気持ちになる。近くに大きな川があり、緑に囲まれた渓谷もあって、自然に囲まれている。とても満足しているよ。君の住むところもとてもいいところだよね…
当番ノート 第39期
正直であることは雄弁と徳業との秘訣であり、正直であることには道徳的な影響がある。真実は雄弁と美徳の秘訣であり、倫理的根拠の基礎であり、美術と人生の極地である。(フレデリック・アミエル) その日は、レッスン生が私ひとりだった。 まだ通いはじめて間もないころのレッスン日だ。普段は3~4人はいるはずのレッスン生たちが、その日は誰も他に来なかったのである。 まだ親しんでいるとはいえない先生二…
当番ノート 第39期
大学生の時、飲み屋で働いていた。大学近くのJR中央線の駅から歩いて数分のところにあり、都心から離れていることもあって、その辺りに住んでいる人や近くで勤めている人も多かった。みんなよくこの辺りのことを知っていた。どちらかというとお客さんに若い人はあんまりおらず、大人の男性客が1人で来るようなお店だった。 家族経営の小さなお店で、そこにアルバイトとして女の子が1人、交代で入っていた。自宅最寄りを通る最…
当番ノート 第39期
一歩、二歩、三歩。 男の歩幅に合わせて後ろ向きに歩く。三歩めで、左足を右足の上に重ねる。 すると、男の手が私の背中をゆっくり引き寄せる。 『前に出て』 その要求に私は応える。左足の下の右足を旋回させ、左足を軸にななめに一歩前進。 だが進んだ先で、ふたたび彼の両手に体を引き寄せられる。 『正面に戻ってこい』 男の手が告げ、私の背中が伝える声。 私はすぐさま従う。 彼の伝言を理解できる…