先日、カフェの開店準備をしていたときのことです。キッチンでの作業中、ふと顔をあげると、庭の木の周りを大きな蝶が飛びまわっているのが見えました。思わず、手が止まり、その蝶を眺めてしまいました。あたたかくなったのだなぁ、と息をついたとき、大きな渦に飲まれたような、ぐるんと目がまわるような感覚に襲われました。はぁ、っと息を深く吸いこむと、ぱっとまわりが明るくなった。気づけばそこは、わたしの生まれ故郷。見慣れた祖母の家でした。
橙色の瓦屋根、えんじ色のベランダの床、桃色の壁。マンゴーの木の脇を通っていくと、勝手口のような小さな玄関があって、その横には井戸があります。その先の道は、家の脇から、なだらかな坂になっていて、もっと行くと山に続いている。そして、檸檬の木、ジャックフルーツの木、キャッサバの畑、いろいろな植物の横をすり抜けながら、わたしの家へと続く急勾配ののぼり坂に合流します。
井戸の横には、プルメリアの木が群生していて、いつも、とても良い匂いがたちこめている。あぁ、懐かしいなぁと思ったとき、その道の先からわたしの名前を呼ぶ声が聞こえました。首を伸ばしてプルメリアの木のほうを見てみると、坂のうえに祖母がいました。白地に、黄色い花柄のついた寝間着をきたまま、外でなにかを見つけたらしい。祖母は家の裏手を指差しました。
坂を少しのぼり、家の屋根が足下くらいの高さになるところから、家の裏手のプルメリアの木が見えました。よく見ると、なにかが動いている。白い花を転々とする、小さな小さな鳥、エメラルドグリーンのはちどりがいました。
はちどりには、特別な思い出があります。
わたしには、はちどりがとても好きな友人がいてね。その子は、街の子だから、なかなかはちどりを見ることが出来ない。だからね、ここに来るときなんかは、花の咲いているところを熱心に探していたよ。
はちどりがでてきたときなんかはね、ほんとうに大喜びしてね。その喜びを感じるのか、はちどりも彼女の近くまでやってきて、花の蜜を吸うことがあったよ。
はちどりを見るとね、やっぱり思い出すねぇ。
彼女がね、亡くなったとき、不思議なことが起きたんだよ。突然、彼女の棺のまわりが、ふわっと明るくなったかと思えば、どこからともなく二羽のはちどりが現れたんだよ。ああいうエメラルドグリーンのと、濃い鮮やかなブルーのはちどりが。その二羽が、何度も何度も棺の周りをぐるぐるとまわるんだ。
友人たちは、みんな驚いて、顔を見合わせていたよ。なにせ、街中に突然はちどりが現れたんだもの。でも、みんな知っていたのさ、あぁ、お迎えがきたんだってねえ。そして、その場にいた友人たちひとりひとりに、別れのキスをするように飛びまわって、どこかに消えてしまったんだ。
今朝、家の中にあのはちどりが飛んできてね。窓を開けようとしたら、玄関の方にわたしを誘導するのさ。外で話がしたかったのかもしれないねぇ。
こうやってはちどりを見る度に、彼女のために祈りを捧げるんだよ。そして、またいつでも遊びにおいでと伝えるんだ。
ふわふわっと高く、はちどりは飛びあがって、太陽の眩しい光が視界を遮った。そして、はちどりは、どこかへいなくなってしまいました。祖母は、空を見上げたまま、目を閉じて、小さく祈った。Venha me ver novamente, minha amiga……
祖母から、度々聞かされたこの話は、いつしかわたし自身の思い出になっているようで、祖母の目を通して、棺のまわりを飛びまわる二羽のはちどりの姿を、実際に見ていたような気がしていました。そして、そのお友達のことも、ずっとむかしから知っているような気がするのでした。
祖母にそのことを話そうと、空から目を離したら、わたしはいつのまにか見慣れたキッチンに戻っていました。あぁ、そうか、日本にいたのだったなあ、と少し残念な気持ちになりつつ、戻ってこれたことに、ほっと息をつきました。
先ほどの蝶はどこへいったろう、と庭に出て探したのですが、もう庭にはいないようでした。庭を見渡すと、朝の光を気持ち良さそうに浴びる、数多の植物たちが背伸びしています。先日、亡くなった、わんちゃんの骨を埋めたところには、大きくて真っ赤な牡丹が一輪、華やかに咲いていました。その牡丹に、そっと触れたとき、ほんの一瞬だけ、風にのってプルメリアの香りがしたような気がしました。そして、耳の裏を、小さな羽音が通り過ぎていったのです。