先月2月4日、経済学者で補完通貨専門家(本人はMonetary architectという呼び方を好んでいた)である
ベルナール・リエター氏(日本ではベルナルドと表記することが多いらしい)の訃報が届いた。
ぼくが約8年前に東日本大震災被災地を訪れた後に、
地域通貨についての話を聞きたくて、
彼のブリュッセルのマンションを訪れて以降、
何度か会ってお金についての個人講義をしていただき、
さらには彼の著作の日本語版を頂いたりした。
その彼は実は今ぼくが仕事をしている
アクセル・ヴェルヴォールト氏のとても親しい友人でもあったらしい。
アクセルのサロンでベルナールが
貨幣とイシス神や黒いマリア信仰との関係を
レクチャーしたこともあったと聞いている。
一年半ほど前のことだったと思うのだが、
アクセル宅の敷地内にあるハーブ園の近くで
ベルナールを見かけた。
どうやらアクセル他の数人とミーティングをした後だったらしい。
久しぶりだったので早速声をかけ挨拶を交わした時に、
ブリュッセルを引き払ってドイツに居を移したことを聞いた。
その時は、仕事の途中だったのもあり、
あまり大した会話もできないまま、別れの挨拶をしたのだが、
そこで踵を返して振り返ったとき、
そこにいた他の人たちの様子がとても重苦しかったので、
とても訝しく思ったのを今でもよく覚えている。
もしかしたら、あの時すでに自分の死期を悟っていて
ベルナールがあの時彼らにそれを伝えていたのかもしれない、
などと今にして思い返している。
そんなこともあり、ここのところまた「お金」について考えることが多い。
「お金」とはなんなのか、それは何を象徴し、
どんなシステムになっていて、
どんな影響を人の心理に与えているのか、
などなど、考えだすときりがない。
ベルナールの『マネー』、高山宏『近代文化史入門』、
三浦梅園『価原』、フーコー『言葉と物』、
などなどを行ったり来たりする日々が続いている。
そんな中で今ちょっと考え込んでいるのは、
キリスト教と「お金」の関係。
と言っても教会内のお金の流れというような
インビなウラ経済的なものではなくて、
三位一体とお金のシステムの関係、と書いたほうがいいかもしれない。
キリスト教の三位一体は言うまでもなく、
父(神)と子(キリスト)と聖霊によるトリニティのことで、
とても抽象的存在である父神の意思が受肉したのがキリスト、
そのプロセスの媒介をしたのが聖霊、
みたいな感じで大雑把な理解をぼくはしているのだけど、
この関係が、価値というある種とても抽象的で相対的なもの(聖霊的情報)を
何らかの「信用」「お墨付き」を与えることでより確固なものにした上で(父神的効果)、
それを流通させるために貨幣や紙幣などに物質化させる(キリストの受肉的物質化)、
という風にお金の成り立ちに当てはめて考えられないものか、
と考えているところだったりする。
もちろんこれはすべての貨幣の成り立ちが
キリスト教的なものだというのではなくて、
もしかしたらこういう仮定的想定から始めてみると
意外と現行経済が西洋的資本主義一辺倒に偏っていることの意味なんかが
ちょっと見えてくるかもしれないんじゃないだろうかもしれない、
などと安易に考えているからだったりもする。
で、もしそうなら、キリスト教が利子をとることを容認したことの意味
(因みにイスラム教ではお金を貸して利子をとることは禁じられている)とか、
(西洋的)神が力を失ってその地位を「お金」が占拠してしまったように見える理由とか、
それと関連して、「アンチエイジング」に代表されるような
死を物理的に排除しようとするコンセプトが多くの共感を呼んでいる理由なんかも
もしかしたらもう少しはっきり見えてくるんじゃないか、
とか、まあそういういやらしいことを考えてたりもする。
で、実のところ、こういう「お金の秘密」を探っているのは、
それが「アートの秘密」に繋がってるんじゃないだろうか、
という漠然とした憶測のようなものがあって、
結局はそこのところを覗き見たいという
さらにいやらしいことを考えてたりもする、
ということだ。
この探求が最終的にどこに向かっていくのか、
というのは全くのミステリーだけども、
何か本質的なことに絡んでいるに違いないという予感はあるので、
こんなおもしろいテーマにぼくを導いてくれた
ベルナールには感謝の気持ちでいっぱいだ。
因みに、これは補完通貨研究者の廣田裕之の追悼文。
改めて故人のご冥福を祈ります。
(全く関係ないんだけど、昨日見た
ルクレチア・マルテル監督の『Zama』という映画が
むちゃくちゃよかったのでその旨ここに報告しておきます。
必見。)