先週末のこと、ベルギーの西端にあるトゥルネーという町で、日本関連のイベントに参加していた友人から連絡があり、その翌日に企画されていた茶道のデモンストレーションをやる予定だった人が急にキャンセルしてきたので、その穴埋めを頼まれた。キャンセルしたその人はぼくの知人でもある茶人なのだけど、ぼくは茶道なんてちゃんと学んだこともないし、そういうちゃんとした人の穴埋めなんてできないと最初は丁重にお断りした。その上で、少し興味があったのでその茶人がキャンセルした理由をいろいろ聞いていたら、どうも主催者側とその茶人さんとの話が噛み合っていないようで、しかもその噛み合わなさが、自分にも見に覚えがある感じのことだったので、なぜかいたたまれない気持ちになって、主催者と話し合い、いわゆる伝統的で正統的な「茶道」や「煎茶道」ではなく、我流のお茶を振る舞いながら知っている範囲で日本のお茶文化のことをお喋りする、程度のことであればやりますよ、とギャラの金額と同時に提案したら、それでいいと言うので、マジか、でもまぁ、彼らが望んでいるのはそう言うカジュアルなレベルのことなんだよなぁ、と思いながら慌てて道具を揃えて先日午後、トゥルネーの日本好きの人たちにお茶を出してきた。あれこれお茶文化やヤキモノ文化について話すことにはだいぶ慣れてきてはいるので、そのこと自体に問題はなかったのだけど、今回引き受けるときにいたたまれない気持ちになったその理由について、行き帰りの車の中であれこれ考えてしまった。
今回の成り行きというのはこういうことだ。まず、主催者は地域の文化活動をあれこれやっている非営利団体で、ここ2週間ほど日本関連のイベント、コンサートや料理のイベント、写真展示会などを企画していて、その一環として茶道を紹介する催し物を企画してその茶人に頼み、茶人の方はそれを了承し、ギャラ(それほど良いギャラではないけど日当としては普通の値段)も前持って振り込まれた。その後、主催者側が茶人が準備していることの内容を確認したところ、15分のお点前のデモンストレーションのみ、ということだったのだけど、それだと企画としてあまりにも短すぎるので、午後から夕方までお茶を振る舞い続けることはできないか、と打診したところ、それはできないということになり、その辺りの折り合いがつかず、結局茶人側がドタキャンするという結果になったらしい。
お茶をやってる日本の友人に聞いたところ、その日当で15分でもちゃんと道具立てもしたお点前を見せるというのは結構安いという話しで、着物も着て行くんだろうし、正式で価値のあるお道具を持ち込むのも大変だろうし、そういうものなんだろうなぁとは思ったのだけど、それは日本国内、もしくは「茶道」の文脈が通じる界隈での話なので、その文脈が通じないところの人が、お茶の立て方を15分見せてもらうだけで、それに1日分の日当を払うなんてことを聞けば、そんな法外な…、と感じることもわかるし(なにせ一般的に言って「お茶」と言えばまずはまだまだ「リプトンのティーバッグ」ということなのだから)、しかも今回主催者側は地元の人が日本文化に実際に触れるきっかけになれば、くらいのノリでお茶のイベントは考えていて、しかも「お茶を出す」と聞いた地元の人がその15分の重要性を理解して、そのためにきっちり時間通りに集まるとは思えないのでできればのんびりと構えて横の会場で行われている展示を観がてらお茶が飲め、そのついでにお茶の歴史なんかの話しができればそのくらいで良い、というスタンスだった。そう言う内状を知るにつけ、その茶人と主催者との認識の間には深くて長い川が横たわっている感じだなあという印象を持った。
この場合、主催者側からしたら、もうちょっと融通効かないの?という「なんだかんだ言っても結局のところたかだかお茶でしょ?」という正論でも無知でもあるという気分を基盤にした言い分があるだろうし、茶人側からしたら、いや、それじゃあ「お点前(tea ceremony)」にならないのよ、という「日本の茶道を紹介したいって言うんだったらもうちょっとそれに関する理解を深めてからにしてもらわないと話にならないのよ。」というこれまた正論とも上からとも言えるような気分を根っこにした言い分が出てくるだろうし、困ったものである。
こういう状況を見ていたたまれなくなったのは、これに似たようなことは、ぼくにも常日頃起こっていて、結構な悩みどころでもあるから。例えば典型的なのは、抹茶用の茶碗の値段をつける時。湯呑み一つが例えば2千円だとして、その横に2万円の「お茶碗」があるのを西洋の人に理解してもらうのはとても難しい。どっちもお茶飲むものでしょ?なのに何この値段の差は???となる。まあ単純と言えば単純、素直と言えば素直な反応だし、当然と言えば当然、とも言える反応だ。一方、作っている側からすると、茶碗にはより手間をかけるし、イッテンモノ的キャラがあるものを目指しているので量産的に作る湯呑みと値段が違って当然とも思うし、どうしても日本の茶の湯的、侘び寂び的価値観がそれを後押ししてしまう。で、そう言うことをほのめかしたりしても、結局のところ、へぇ〜、でもそれに価値があるとはまだ認識できないのよなぁ〜、他所の文化だし…みたいなところに戻って来てしまうことが多い。
このジレンマを解決するには、大まかにはふた通り方向性があって、単純に西洋スタンスに立ってしまって彼らの価値観に沿って実際の価値、値段を決めて行くか、もしくは遠回りだけど、「侘び寂びのシンパ」みたいな人を増やして、その界隈でなるべく多くの取引が成立するようにして行くしかないんだと思うけど、前者はプロセスとしては簡単で、難点は自分が抱えている文化に対するプライドみたいなものをさっぱり捨てられるかどうかにかかってる。(意外とそこが難しいはず。)
そして後者の場合は本当に面倒臭い。色々と時間をかけて説明やら啓蒙やらをしなければならないから。その辺りのこと、ちょっと誰かやってくんない?ってほんっとにしょっちゅう思う。(考えるだに面倒なので、自分ではやりたくない。)
とかなんとか色々考えてたら、あぁ、あれがあるじゃん!って思うのは岡倉覚三(天心)の『茶の本』なんだけど、あれが出版されたのって確か1906年くらいのことで(もう112年経っとるやん)、あの内容が今通じるかどうかとか思う以前に、この一世紀以上の間、お茶文化に関して日本人が自ら外国語で著した本が(たぶん)これだけだったってのがなんとも淋しい。クールジャパンとか言うてけっこうな予算使いまくっとる間に他にやることあるんちゃうんかい?とか愚痴りたくなる。
って言うててもしゃあないので、とりあえず青空文庫からスマホに『茶の本』をダウンロードしてみる。さらにアマゾンに英文(原文)版が無料でおいてあったので、それもDL。しましたなう。
んで、とりあえず最初の一ページ目を両方のバージョンで読み比べてみると…、ん?んんんん?うっわ。これ、やっば。やばいわ、まじ。と、とりあえず、まず、ものすご〜く簡潔、と言うかこれ以上ないくらいに要約されている文章なのに、内容がムッチャ盛られまくっている。それはそれでものすごいんだけど、それよりも何よりも、いま、これ書きながらライブでマジでびっくりしてるのは、日本語訳では『茶道』と訳されている言葉は「tea ceremony」ではなく「Teaism」(Taoismちゃうで)となっている。「ティーイズム」…
ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい、岡倉さん。私の不勉強で、今の今までちゃんと原文に目を通していなくて、なんでもっと早く読まなかったんだ、オレ、ってムッチャ反省しながら、とにかくものすごい驚いてます。はい。「Teaism」って言葉を造って(東洋人である)自分の、しかも西洋に向けた著作の中のしかも冒頭ページののっけからどどーん(と言うかおれ的には「ちゅど〜ん」くらいのインパクトがある)と言うか、しれーっと当然のように使ってるなんて、それだけでもムッチャ西洋に喧嘩売ってる感じがするんですけど、そう言う感じでいいんですよね?いや、だってお茶なんて、西洋文脈では単なる嗜好品、つまりは形而下の物の中でもさらに下の方に位置づけできるようなものであって、それと形而上的で思想的なあれこれにくっついてくる「ism」とくっつけるなんて、西洋側からしたら、アホちゃうかって感じのナンセンスにしか取られないようなことだと思うんですよね。それ、やります?20世紀初頭に。(そういえば西洋に喧嘩売ってる感じの記述が他にもあった記憶がある。)そう言う意味では、この本、文化的爆弾のつもりで放り込んだんじゃなかったですか?ほぼ思想的&芸術的なテロですよ、これ。あ、今、バンクシーを思い出した。
あ、そっか。なるほど。これで、と言うかこれだけでもうわかる気ぃがして来た。なんでこの1世紀の間、こう言う本が書かれなかったのか。たぶん、この原文が凄すぎて、これ以上のことが書けないんだわ。岩波文庫の『茶の本』は何回か読み通したけど、これは原文を読まなきゃダメだ。と言うか、これ注釈つけてちゃんと言及しとかなあかんところだけど、ついてなさそうだな。(今アマゾンで講談社バイリンガルブックス版、講談社学術文庫版、角川ソフィア文庫版、そして対訳ニッポン双書版をざざっと覗き見したけど、「茶道」に注釈はついてなさそうだった。そしてこの中でKindle版があるのは角川ソフィア文庫だけだった…)
つぅか、この本、やっぱすごいわ。繰り返しのようになるけども、今、誰も『茶道』を「Teaism」なんて訳さへんしな。お茶やってる人たちも、みんな英語では「tea ceremony」言うてるはず。いや、時と場合によっては、それでもえぇねんけども、別の場合には「Teaism」って訳した方がいけてる場合もあるはずやんな。ってことは、今回の冒頭からの流れから言うたら、まずは日本人がこの英語の原文に当たる機会が増えるようにしたらええってことやな。それでもって、内容を学ぶことはもちろんのこと、なんで岡倉さんがこう言う本を書いて、こう言う表現をしたかについて思いを馳せてみる。とか言うことをやって見て、やっととりあえず「お茶」→道教(岡倉さんは結構なページ数を割いて道教のことを書いてはります)→ワビサビ→日本文化、みたいな感じで説明ができるようになるって感じになるんかな。いや、これ別に『茶の本』を通じずともできる作業かもしれんけども、それを一から自力でやろうと思ったら、相当な労力が必要やな。やっぱりありがたくこの本を活用させてもらうのが有効やと思うな。善は急げっちゅうし、そう言うことやから、ちょっと『茶の本』原文及びその周辺を読み込みに行って来ますわ。ほなさいなら〜。