小学校を卒業した春、家族とともに一週間ほどの里帰りをした。8年ぶりに会う母方の祖父や、いとこたち、おばたちは、まるで初対面の他人のようだった。だけど、彼らはきちんとわたしをおぼえていて、わたしたち姉弟の成長を喜んでくれているようだった。日本での暮らしぶりを知らない彼らは、当たり前のように、わたしをMaysaと呼んだ。不思議なことに、それまでわたしをKeikoと呼んでいた両親までもが、ブラジルではわたしをMaysaと呼んでいた。ごく自然に、さもそれが当たり前のように。もっと不思議だったのは、それがちっとも嫌じゃなかったということだった。むしろ、自分のほんとうの名前の音色が懐かしくて、くすぐったくて、照れくさくって、嬉しくて、心地が良かった。
その一方で、ポルトガル語が話せない自分に対する苛立ちと焦りが、わたしをじりじりと締め付けた。そして、名前を呼ばれる心地よさと、心地いいと思っていることに対する後ろめたさ、そんな自分自信に対する情けなさがわたしの気持ちを乱した。祖母の家のテラスで、真っ白なハンモックの中でさなぎになりながら、持参していた宇多田ヒカルのアルバムと、椎名林檎の”眩暈”をエンドレスで聴いた。そして、銀色夏生の『夕方らせん』と、辻仁成の『二ュートンの林檎』をむさぼるように読んだ。文章の意味なんて、きっとわかってなかった。ブラジルのまぶしい色彩や、ポルトガル語の音色や、自然体な人々の姿をシャットアウトするかのように、日本から持ってきていた音楽や本に身を投げた。どのように自分の感情を処理したらいいのかわからずにいたけれど、それほどまでに、わたしは激しく心を揺さぶられていた。
日本に戻って、わたしは中学生になった。中学では「富川 マイザ ケイコ」と名前を表記するようになった。中学校から名前の表記について問い合わせをうけて、そのように表記してほしいと伝えたからだ。ブラジルでの経験が、大きく影響していたのだと思う。でも、それほど大きな変化はなかった。わたしは今までと変わらず、日本人のように生きたし、まわりの友人たちにとってもなにも変わりはしなかった。なかには、「マイザ」という名前について質問してくる者もあったけれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。だけど、一つ大きく変わったことがあった。「日本人みたい」と言われることに、違和感をおぼえるようになったことだ。
例えば、わたしは本を読むのがとても好きで、ろくに勉強せずに本ばっかり読んでいた。そのせいか、国語の成績だけはずば抜けてよくて、国語科の教諭に褒められることも多かった。そんなとき、先生はまわりの人を引き合いに出して、他の生徒に「お前ら、日本人なのに情けないぞ」と言ったり、「日本人じゃないのに、これだけできたら見事だ」などと言った。小学校時分であれば、その言葉を聞いて喜んでいたのだと思う。だけど、中学生のわたしには、その言葉が純粋な褒め言葉には感じられなかった。褒められて嬉しくなかったわけじゃない、だけど胸の中をちくりちくりと刺す棘の存在感のほうが、遥かに大きかった。その国語教師を、いつしか苦手と思うようになったのは、わたしにはごく自然なことだった。
中学では、今まで「こうであるべき」だとか「こうしないといけない」と信じてやってきたことが、少しずつ食い違って、少しずつ崩れているような気がしていた。日本人の模倣をいくらしても、どうしようもないんだって、どこかで気づき始めていたのだと思う。だけど、後戻りするのには遅すぎた。わたしの中で形成された日本人としての自分が、ぎりぎりと爪をたてて、体中を引っ掻きまわしていた。自分の中に巣食う、もう一人の自分が暴れれば暴れるほど、苦しければ苦しいほど、わたしはたくさんの本を読んだ。本を読むことで、胸の内のざわざわとした気持ちを打ち消そうとした。だから、同じ本を何度も、何度も、何度も読んだ。カバーがすり切れ、文字がかすむようになるまで読み続けた。
日本での生活には、期限があった。わたしが中学を卒業したら、ブラジルに戻ることは決定していたし、ブラジルでの新居を建てている途中だった。そして、しばらくは父と別居することになるだろう、という話もでていた。日本語しか話せない自分が、どのようにブラジルで生活していくんだ、どんな学校生活がおくれるんだ、治安が悪いのに父と離ればなれになって大丈夫なのか、無数の不安が降っては積もった。だけど、そんなこと誰にも話せなかった。当時の自分には、自分の感じていることの意味や、不安の出所がちっともわかっていなかったから、なにをどう話せばいいのかさえわからなかった。わたしはただただ無力で、ただただ不安で、自分の居場所がどこにもないような気がしていた。
卒業式の日、ブラジルに発つわたしに同級生たちや、先生たちが色紙を書いてくれていた。国語科の先生は、「君の大和魂を忘れない」と書き記していた。その言葉を目にした瞬間、わたしは日本刀でのど元を搔き切られたような気がした。わたしが泣いたのは、別れが悲しかったんじゃなくて、自分自身が心底嫌だったからだった。