気づけば、五月ももう終わり。新生活を初めて二ヶ月が過ぎようとしている。なにもわからないところからスタートしたから、とにかく必死でやってきた、一生懸命に。それなのに、最近少し気が沈みがちだ。遅れてきた五月病だろうか。常に、なにもうまくいっていないような気がしているし、これでいいんだろうかって、不安な気持ちがゆらゆら、ぐらぐら。電車に揺られているとき、家の中でぽつんとひとりのとき、夜眠りにつくとき、まな板に向かって包丁をうごかしているとき、連れ合いが家に帰ってきて二人でいるとき、そんな日常の些細なひとときを、暗い影が覆う。大きな渦にのまれる。まるでレヴィアタン。
こういうとき、わたしは声がでなくなる。のどの奥で、ぐるぐるとなにかが渦をまいて、締め付けてくる。のどの奥になにかが住んでいるのかと思うくらい、声が奪われ、エネルギーが失われていく。10代から20代前半にかけて、こういうことがあるその度にノートやパソコンに向かって、延々と文章を書き付けたものだった。書くことで救われていると、どこかで思っていた。そういしないと生きていけなかった。だけど、今はその逆だと感じている。書いた分だけ、わたしは沈黙し、飲み込み続けている。本来なら、声に出して、血肉を与え、噛み砕いて水に流していくべきものが、のどの奥深くにとどまったまま、停滞して、どんどん積もって、石のように重く、固くなって、いくつも胃の中に穴をあけそうなほど重たくなっていく。抱えきれなくなって、胃袋ごと吐き出したときにはもうすべてが手遅れになっている。覆水盆に返らず、という風に。
書くことによってその一瞬は気楽になったような錯覚に陥るけれど、根本解決にはなっていないことが多い。いつも同じことを書いて、同じようなことに気づいたような気になるだけ。だけど、失ってしまったいくつもの声を出す機会は、もう一生戻らない。そもそも、声をあげること、声を出すことというのはどういうことなんだろう。必死になると、そんな単純なことですらわからなくなる。必要や、必要や、って思っていても、それがいつまでたってもできないというのは、本当に自分にとって必要なことなのかって。大切なことほど黙っている人も世の中にはたくさんいるのだし、声に出すことがすべての解決策でもない。
でも、声に出すっていうことは、必然的に聞き手がいることがその大前提だ。書いた文章は、誰にも読まれないままそこに永遠にあり続けることはできるけれど、声に出した言葉には聞き手が必要で。だから、本当に必要なことって、声を出すことというよりも、自分の本音を預けることができる聞き手の存在なのかもしれないって思ったりもする。そういう人がいて、自分のとりとめのない気持ちの揺らぎを受け止めてもらうということが、一番大事なことなんじゃないかって。
今でこそ、そういう風になんでも話せる人がわたしにはいるけれど、ほんの少し前までは大事なことほど人には言えない質だった。たまに、そのときの癖で黙りこくって途方に暮れてしまうけれど、自分の気持ちをひたすら書いてふと思い出す。あ、わたしには、このまとまらない気持ちを吐き出せる人がいるんだった、ってこと。そうすると、鬱々としたことしか書かれていないノートのページがみるみるうちに溶けて、わたしの肌の毛穴という毛穴から、わたしの体内へと還ってくる。言葉は涙となることも、汗となることもあるけれど、きちんと受け止めてくれる人がいるから、溢れ出してもいい。何度も同じことを繰り返して、何度も何度も安心感を得て。そういうことを繰り返すことでようやく生きていけるだと思う。だから、今日も生きていられる。明日もきっと。