ほんの少し前まで、毎日電車に揺られながら仕事にむかうっていうことが、自分にはできないと思っていた。ずっと、ずっと、自分には普通の人が当たり前にやっていることができないんだって、なにかが欠落しているんだって思っていた。だけど、気づけば今では、無理だと思っていたことが自分の当たり前になっている。今の自分には、ほんの少し前までのわたしの中にあった劣等感がない。その劣等感がどこにいってしまったのかはわからないけれど、履き古した下着のようにするりと脱げていったのだと思う。
自信がでた、というのは少し大げさだけど、年を重ねていくうちにわかってくることがあると、今は言える。自分の形がわかってくる。自分の声がわかってくる。自分の姿を鏡に写しても、これでいいよって許せるようになってくる。いいところも、わるいところも同じように、自分のなかの一枚の絵。いいところとわるいところ、ほんの少し前までは、自分の中のべつの面だと思っていた。だからぶつかり合って、どちらかが勝たないといけなった。白黒つけないといけないって、誰に言われたわけでもないのに「そうしなければいけない」と思い込んでいた。だけど、そもそもそんなに簡単にいいところとわるいところは切り離せない。どちらも同じものだから、喧嘩させようとしたって無意味だったし、どっちかの面ばかり表に出すことは不可能だった。
ひとはよく、「大人になったらわかる」だとか「大人になったら楽になる」と、子どものわたしにそう言っていたけれど、それはほんとうだった。そのことを、もっと幼いときの自分の耳元にささやくことができたら、どんなによかったろうか。とはいっても、今までもがいていたことに意味があるのかもしれない。「できない」ことができるようになる。「ゆるせない」ことがゆるせるようになる。「見たくない」ものが、見れるようになる。もちろん、できる限りいい方向に駒を進めたいけれど、たとえ一時間違ったとしても、また戻って来さえすればいい。そう思えるようになって、わたしは随分とおおらかになった。「できない」と思うことも、「できない」自分でいることも、ゆるせるようになった。ゆるせるようになって、ちがう生き方でもいいっかって思えるようになった。だから、ゆるすことはとてもとても大切。
きっと、明日も「面倒だな」って思いながら、急いで家の鍵を閉め、駅にむかうと思う。失敗しても、きっと同じように駅にむかうと思う。そうやって、わたしはまたひとつ、ほんの少しだけ身軽になっていく。ゆるす数が増えた分だけきっと、身もこころも軽くなっていくんじゃないかって、今は思う。