沈黙が、ひとを繋ぐことがある。語らなくても、なにかが深く互いのこころに染み込んで、言葉にしなくても通じ合う。沈黙が放つ閃光は、あまりにも微かで、あまりにも儚い光だから、見逃してしまうことも多い。だけど、なにかの拍子に、他人同士が隣り合って、肩を並べて、互いの痛みを分かち合う、そんな深い関係になれもする。わたしが予備校生だったころ、そんな経験をした。
ヘジナウドは、カエターノ・ヴェローゾによく似た人だった。年を重ねた白髪まじりの髪に、どこか寂しげな視線。流れるような、歌うような、波のある話し方も、その声も、白いシャツがよく似合う褐色の肌も、カエターノにそっくりだった。彼の周りには、常に音楽が流れているように感じられたし、彼はまるで踊るようにリズミカルに歩いた。実際、歌いながら教室に入ってくることも多かったし、授業がミュージカルのように思える日もあった。彼はポルトガル語文法の先生だったけれど、文法よりも、文学を教わりたかった。当時の文学の先生よりも、ヘジナウドの方がよっぽど文学を語るべき人に思えたから。だって、ヘジナウドはまるで、小説のなかの登場人物みたいだった。こんな人が主人公の小説ならば、絶対に読んでみたいと思っていた。なにより、大好きなカエターノによく似ていたから。そんな単純な理由で、わたしはヘジナウドが好きだった。
だけどヘジナウドは、あるときから突然、ぱたりと歌うことをやめてしまった。授業中も、どこか遠くを見つめるようなことが増えていった。授業をしていても心がここにない、どこか遠くをみていて、彼に何かが起きていることは明らかだった。だけど、だれも、その変化に触れようとはしなかった。ヘジナウドの周りにはただならぬ気配が漂っていたし、なにか暗い予感があった。
ある日、ヘジナウドは突然予備校を休んだ。予備校の事務員も、その休みの理由を知らなかった。その次の日、彼は遅れて教室に現れた。昨日はすまなかったね、と彼は静かに話した。今朝も、校長と話してからきたから、遅れてしまって。そうい言いながら、教科書を広げ、教壇に立った。
わたしはひどく文法が苦手だった。ポルトガル語を学び始めてから四年。言語自体は大分理解できるようになってはいたけれど、学術的な言葉や文法用語とはなかなか仲良くなれないでいた。授業がわからなくて、泣きそうになることもあった。言葉が理解できないのに、授業が理解できるもんか、とやさぐれることもあった。でも、それでも授業は進んでいく。ヘジナウドのことはとても好きだったけれど、わたしにとって彼の授業は心がずたずたになる時間だった。わたしの歩んだ道が、否が応でも目の前に広がって、過去の苦しみが何度も何度も繰り返される、そんな時間でもあった。息がつまりそうになる、目が潤む。喉が痛む。泣きそうになるのをこらえて、授業をきく。それの繰り返しだった。
今思えば馬鹿なことだけれど、当時のわたしは誰にも文法が理解できていない、と話すことができなかった。ヘジナウドにすら、わからないことを質問できなかった。努力不足ではあったけれど、それ以前に自分がなにを理解できていないかすらわかっていなかった。質問しようにも、言葉が出てこなかった。何度も何度も、助けを頼もうとしたけれど、その度に言葉を飲みこんで、喉に走る苦しさに耐える日々だった。怖かった。ヘジナウドが遅刻したその日も、わたしの中ではいろんな感情が渦巻いて、今にも泣きだしそうになっていた。90分間の授業が永遠に思えた。
チャイムがなって、ヘジナウドは教科書を閉じた。昼食をとりにいく学生たちは、どんどん教室から出ていった。わたしは、ひとり教室に残った。黒板の文字を消し終えたヘジナウドは、わたしに言った。きみは、昼食は。お弁当をもっています、とわたし。彼はわたしのほうをみて、もっと深呼吸したほうがいい、と言った。なにかつらいことがあるんだね、とも。
僕の授業は嫌いかい。いいえ、と首を振る。でも、いつも苦しそうだ、今日はとくに。たまに、この子はなんでこんなに悲しそうな顔をしているんだろうか、と思うことがあるよ。僕も、いまとてもつらくてね。しっかりしなくてはとは思うのだけれど、なかなかうまくいかない。勝手な思い込みかもしれないけれど、君もそんな風な思いでいるんじゃないかと、ふと思ってね。声をかけてみようと思ったんだ。でも、話したくないなら、別にいいんだよ。
気がつけば、わたしはぽろぽろと泣いていた。横に腰掛けたヘジナウドは、写真の中にいるように、ぴくりとも動かず、静かに待っていた。ぐちゃぐちゃの頭で、わたしはヘジナウドに話した。文法の授業は、苦しいです。ポルトガル語がきちんと理解できなくて、授業についていけてません。先生に質問しようと思っても、なにがわからないのか、わからなくて、できないでいます。でも、悪いのはわたしで、先生のせいじゃない。わたしは先生の授業が嫌いなのではなくて、わからない自分が嫌いなのです。
ヘジナウドは頷きながら、わたしの話を静かに聞いていた。突然、どうしようもない申し訳なさを覚えて、ごめんなさい、と言ったわたしに、ヘジナウドは言った。もっとはやく言ってくれればよかったのに。僕は、君がポルトガル語をきちんと理解できていないとは知らなかったから、ケアが足りなかったね。こちらこそ、すまなかった。だけど、これからはきちんと僕に質問してくれなくてはいけない。困ったらすぐに僕に言いにきなさい。君の過去がどうであっても、僕は今の君の味方だし、教えることが僕の仕事だからね。恥ずかしいなんてことはないし、学ぶことから逃げないで欲しい。わかるね。若いうちから、そんなに苦しまなくてもいいんだよ。もっと深呼吸して、気楽にしていればいい。道は長いのだし、必ず美しいのだから……
ヘジナウドの目から、一筋の涙が流れたのはそのときだ。胸がざわついて、ちくりと痛んだ。彼は、決まりの悪そうな顔をした。気にしないで、目でそう訴えてきた。お互い頑張ろう、そういって彼は急いでその場を離れた。わたしは口の中が少し、しょっぱいような気がした。
それからしばらく、ヘジナウドは予備校を休んだ。学生から心配の声があがるようになって、家族が病気なのだ、と話したのは校長だった。ヘジナウドは必ず戻ってくるから、安心してください。ただ、温かく迎えてあげなさい。彼はいま難しい時期を過ごしているから。わたしの胸の中で、ヘジナウドの残した言葉が、何度も何度もこだました。彼が流した涙を思い出して、どうしようもない気持ちになった。ただ、ただ、祈るしかないのだ、とノートの余白を眺めながら思った。