梅雨明け早々の日本からこんにちは。
いろいろめんどくさ案件真っ只中。
日毎暑さが募ります。
タダではもらえぬアイスクリーム
暑さコラえて舐めてます。
そんな中、今頃ベルギー辺りは
ちょうど良い乾いた空気の夏真っ盛りで、
みんなサマーバケーションを楽しんでることだろう、
と思いきや、あちらはあちらで猛暑続き。
ベルギーでも40度越えの極暑だとか。
(一瞬、日本の夏も捨てたもんじゃないとか思いかけた)
今回日本に来た当初は梅雨明けが遅れてて
ずっと曇り空が続いてたんだけど、
その時ベルギーは快晴続きだったとか。
(一瞬、ベルギーの天気が羨ましいとか思いかけた)
世の中いろいろ狂ってて修羅みあるわ〜という感じ。
と言うことで、最近耳目にした修羅みあるもの。
参院選での投票率の低さ。
映画『主戦場』に登場する右翼の方々の言説。
映画『タイム・リメンバード』のビル・エヴァンスのジャンキー度。
映画『天気の子』の音響と作画の描写力。
友人から聞いた日本の職場での有給休暇の取れなさ具合。
4〜5ユーロほどで食べられる日本の定食のクォリティーの高さ。
某ロイヤルホストの冷房の効き加減。
「参禅」という言葉が理解できない禅坊主。
梅雨明け後の日本の湿度。
日本のバラエティー番組の気が遠くなるような低脳さ。
朝のファミレスでエビフライをつまみに生ビールを飲んでるおっちゃん。
このおっちゃんは今これを書いているぼくの真向かいに座っているんだけど、
朝のエビフライは流石に見ているだけで胸焼けがしそうである。
ブリュッセルだと朝からビールを飲んでいる人は
結構見かけるのだけど、それでも揚げ物はないわ〜。
おそらく70代半ば位だろうか。
内臓が強いのだろう。
それだけでなんか妙にリスペクトしたくなる。
ぼくの場合、随分前から量は減ったのだけど、
やはりうまい酒を飲むのは楽しい。
そしてぼくがリスペクトする陶芸家は
ほぼ間違いなく酒好きだ。
魯山人を引き合いに出すまでもなく、
うまいものをより美味く飲み食いしたい、
そのためにやきものを焼くと言う人が本当に多い。
酒を飲まないのに酒器を作るなんて、
踊れないのに振付をしようとするようなものだ、とも思う。
作れなくはないけど、そこに内臓感覚を宿した
「好き」がないものには技術やコンセプトの跡形しか
残らないんじゃないかと思う。
それはどんな表現にも共通していることだろう。
酒が飲めなければ表現できないわけではないけれど、
作為と無作為の間を行ったり来たりしながら、
最終的にはある程度の偶然に委ねることの多い
製作過程に長いこと携わってきた身としては、
少し酔いが回ったあの感じは、心身の理想的な状態だなと
言えないこともないなと思う。
意識と無意識が混ざり合って行くあの感じに身を任せて、
その浮遊感の中にいる自分を由しとすることができるというのは、
なかなかシラフでできることではない。
(シラフでその状態だと、それはそれでヤバみ深いけど)
かと言って、酒に依存すればその絶妙な愉しみから
足を踏み外してしまうのだから
そこではギリギリのバランス感覚が必要なわけで、
より多くの幸福感を得るために禁欲生活を送る
修道僧が最も強欲だという言い方もできるという、
パラドックスみたいなことが起こる
そこは境界線なのだろう。
振付家で言えば、ベジャールはディオニソス的な混沌に
心身を浸しながら行き着く果ての精神状態を重要視していたように思うし、
フォーサイスはその反対にアポロン的な秩序を重要視して、
意識の明晰さの果ての恍惚を目指していたところがあると思う。
どちらにしてもある種の恍惚感というのは自我を離れることのできる
三昧境であって、その場所こそがそのバランスの究極の一点なのだろう。
その場所に立ち続けるためには、どうしたら良いのだろう。
その秘密が書き込まれてある何かの聖典のようなものを探し求めるのか。
ちょうどいい感じでひたすら酒に酔うのか。
ただただひたすら何かを為し、作り続けるべきなのか。
けっきょく作り続けることにしか自分自身の正解なんてあり得ない、
というのがぼくの今の見解なのだけど、
それでもどこかにマニュアル本的なものがあって、
ふとした瞬間に自分のところに降って来たりしないかなぁ、
という中二病的思いが捨てきれないのは、
本当に業が深くて修羅シュシュシュ。
明日はビーチで禊してこよう。