入居者名・記事名・タグで
検索できます。

3F/長期滞在者&more

僕がいない

長期滞在者

仕事が超繁忙期で、何かとストレスも積もるので、無理に一日休んでウサを晴らすことにした。
とりあえず自転車で100km走ろうと決めた。
100kmという距離に別に意味はなく、ただキリのいい数字ということ。家(尼崎)から片道50kmの地点を探せばいいのである。
夏に頻繁に和泉市の光明池まで通っていたときは片道40kmだった。もう少しだけ遠いところ、と目星をつけてGoogle Mapで探す。河内長野市・河内長野駅あたりでちょうど50kmなのだと知った。
50kmならまぁ3時間くらいで着く。往復6時間も漕げば少しは気も晴れるだろう。よし。河内長野。行こう。
大阪府の南端、イタリアのように大阪府を靴に例えるならばカカトにあたる部分である(イタリアとは靴の向きが逆だが)。

距離がちょうどだから、というだけの理由でもあり、それだけではないとも言える。
実は僕は昔そこに住んでいた。もう40年以上前の話なのだが。
その後、堺市や大阪北部や現在の尼崎へと住処はどんどん北上していったから、なかなか南部に用事もなく、それ以来行ったことがない。どうせならちょっと昔住んでた町でも見てみようか、と考えたのである。

堺までは行き慣れた道である。そこから310号線をひたすら南下する。
大阪狭山市を越え、あっけなく河内長野市に入った。大した起伏もなく拍子抜けするほど楽な道だ。
楠木正成で有名な千早赤阪は河内長野の隣なのだが、堅固な山城で北朝の軍勢を翻弄したというイメージから、隣市の河内長野ももっと標高の高い場所を想像していた。
ところが河内長野に入っても道はほぼ平坦なままで、全然「山」感がないのである。
一応のゴールと定めた河内長野駅で、Google Mapで調べたら標高122mとある。そんなものなのか。
河内長野駅の南から急に山地が始まって和歌山との県境は岩湧山や金剛山の連なる山脈になるのだが、その山脈がまさに大阪の南のフチであり、フチのキワまでは大阪はただひたすら平野なのである。細すぎるもんじゃ焼きの土手みたいなものだ。
大阪府域ほとんど、昔は海だったに違いない。大洪水が来たら相当な範囲が危なそうだ。

・・・・・・

その住宅街には5歳から12歳までの7年間住んでいた。40年以上昔の話なのだが、それだけ経っていても街路の記憶は確かで、住んでいた場所もすぐに見つかった。
もちろん家も建て替わり、あたりまえだが他人の表札が架かっている。
しかし驚くことに、両隣の家は当時のままの名前だ。裏手にあたる家も。
月島、横井、辻尾。
その表札を見たとたん、なぜかざわざわした気分になる。

40年の空白を隔ててその街区にいる。
月島家と横井家と辻尾家が40年在り続けた空間に、いなくなった僕が立つ。
自分が消えた空間が、40年自分と無関係にそこに在り続けたというあたりまえのことに、居心地の悪さのようなものを覚え、肌が粟立つのを感じる。
この感じは何かに似ていると思った。
何かの喩えに思える。
ああそうだ。大げさに言うのならば、世界は僕の認識の中にしか存在しないはずなのに、僕が死んだ後も世界があり続けるという不思議。それだ。

僕はこの家の後、家族で3回引っ越したうえ、家族から離れた後も6回引っ越している。あまり意識したこともなかったが、今数えると生まれてから12ヶ所の住所を経験しているのである。
なのであまり一ヶ所に対する思い入れというものもなく、自分が「どこの人」という感じも希薄だ。
そういう意味からすれば、40年間表札の変わらない家というだけでも僕とは異質の世界なのだ。
その異質さに、自分だけが世界の外に放り出されたような錯覚を感じる。

ノスタルジー、ということを考える。
郷愁という日本語が充てられる。郷の愁いと書く。
しかしそこに住み続けているものには郷愁は無関係であるから、結局はノスタルジーの正体は「分断」であるということになる。
僕が感じた分断はノスタルジーなのだろうか。
僕はそこから泣く泣く離れたわけでもない。特に愛着が濃いわけではない。
ただ、そこには僕に関係がない時間が流れるという、あたりまえのこと、あたりまえの不在、あたりまえの疎外、そして世界と自分の関係のある種の比喩があるだけだ。

月島家には同年代の子がいなかったのであまりつながりもなかったが、横井家と辻尾家には同級生がいて仲良くしていた。
横井さんちの娘は英子ちゃんといった。名前も顔も思い出せる。
横井さんの飼っていた犬が山中でスズメバチに襲われた、という話もよく覚えている。山で遊ばせてやろうと車で犬を連れて行ったら犬がスズメバチの巣に突進してしまった。横井さんのお父さんは車中に飛び込んで難を逃れたが、何十匹に反撃された犬は即死したそうだ。
辻尾家の息子は名前も忘れたが、お父さんは実業団の卓球選手だったと聞いた記憶がある。選手時代の表彰台の写真が家の中に飾ってあったのを覚えている。
そういう話を聞くくらいの間柄だったのが、自分の家が抜け、その住宅街の歴史は抜けた僕とは関係なく続いた。そういう関連と分断の網目の中に世界はあるし、死ぬまで関連したり分断したりが繰り返される。そして言うまでもなく死という分断によっていつか僕は世界から退場する。
しかし横井家のように辻尾家のように、世界は続くらしいのだ。

そういうことを、いろいろ考えながら、また50kmを戻ってきた。

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

昨日までそこにいた人が(この世に)もう居ない、ということは病院という場所で仕事をしていると
いつ起こってもおかしくはなく、もうとっくに数え切れないほど経験した。
特に比較的若い方や、安定した経過から予想外の急変だったりすると実感がないまま
直接看取っていない場合は数ヶ月経ってもまだどこかにいるんじゃないかという気になったりする。
ふとしたきっかけで、亡くなってしばらく経つ故人が職員の間で話題にのぼり「まだ実感ないよね」なんて、
まさに今日も話をしたところだ。

休みが明けて出勤をした時に空のベッドを見て驚くということをしても
それでもなんだかいなくなった実感がどこかわいてこない。
直接看取ることをしても、経過が長く、入院が数年にわたった場合いろんな思い出があったりもして
比較的元気だった頃の故人を何かの折に思い出す。

「このお菓子好きだったな」「あの職員がお気に入りでよく喋っていたな」「こんな珍事件があったな」
「キャラクターのバスタオル使ってたな」「そっくりの娘さんがいたな」「いつも野球の話ばっかりだったな」
「見せてくれた若い頃の写真、いい写真だったな」「高熱出してようが、いつもすごい食べっぷりだったよな」

そういった、本当に本当に些細なことを。
で、(向こうの世界で)元気かな、と、自分はちょっと変なことを思うのだ。
転院していった患者さんに、「元気かな」と思うのとほぼ変わらぬ、同じ気持ちで。
同じように病院で働く人が皆そうだとは言わないけれど。

そんなわけでわたしは誰が居なくなっても世界は一分一秒止まることなく進み続けることを忘れられることが
あまりない。
不在が当然になると、逆に、不在を不在と感じにくくなるのかもしれない。

そうか、世界はわりと、不在によって分断されるのか。
当然といえば当然だ。
けれど、たとえ最も強い分断である死によって分断されたように見えた後も、そうそう。
世界が続くばかりではなく、こうして知らずのうちに、微妙に、ほんの少しだけ繋がっているような
こともあるんですよ。
別に化けて出てこなくったって関連は発生する。

あなたの使っていたバスタオルの柄ひとつで。
ふと教えてくれた旦那さんとの馴れ初めで。
話さなくても、たった数ヶ月同じ空間で過ごしただけで。

まだ、ここに居ない気がしない。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る