11月は職場(営業写真館)の大繁忙期である。一日中七五三の子供の撮影をしている。日によっては一日に5000回くらいシャッターを切ったりするので肉体疲労と眼精疲労が甚だしい。
シャッター5000回といえば、昔のフィルム換算でいえばブローニー(中判)フィルム500本、35mmフィルムなら36枚撮り138本にあたる。フィルムの時代なら到底考えられないようなコマ数を消費している。
もちろん多ショット化によって写真の質は変わるわけで、昔は狙いすまして一撃必撮だったというけれど、実際10倍シャッターを切ればそれだけ多様な表情を得られる。多くの選択肢から選ばれた顔の方が良いに決まっているのである。決して無駄打ちだとは思わない。
しかし目や体の酷使疲労に関して言えば、これは明らかにデジタル化で負担が増えている。
失敗のできないフィルムの時代は胃を、枚数をこなさねばならないデジタル時代は目を、撮影者は病むのである。
毎日ではないにせよ、一日5000ショットも使っていると、プロ用一眼レフとはいえ機械の消耗も激しい。このような日が60日続けば、プロ用一眼レフの耐久シャッター回数30万回を超えてしまう。
70万円のカメラが30万回でアウトになるならばワンシャッターあたり2.3円である。5000回シャッターを切った日は11500円分機材を消耗したということだ。
(実際はキヤノンEOS-1DX mark lll のシャッターは、経験上45万回くらいまでは大丈夫で、ダメになったら5万円でシャッターユニットを交換することになる。なので、70万円がまるまるダメになるわけではないのだが。)
今後プロ用機がミラーレス化し電子シャッターだけになったら、ミラーと機械シャッターの駆動がなくなるので耐久回数は格段にアップするのだろうか。
しかし撮影者の目が疲れること、一眼レフの比ではないと想像する。かなり良くなったとはいえEVF(エレクトリック・ビューファインダー)である。一眼レフでレンズ越しの実景を見ているよりはるかに目に負荷を強いるはずだ。
ほんと勘弁してほしい。
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というような忙しい11月のある日曜日、仕事で5000回シャッターを切ったあと、夜に長居公園で待ち合わせて、本稿のレビューを長く書いてくれている藤田莉江さんを撮った。
疲労困憊でなかなか脳に新しいインプットができないこの季節。なかなか題材が浮かばずに、あわよくば彼女の写真でアパートメントの連載1回分、お茶を濁そうかという魂胆である。
お茶を濁す、というと軽く考えているような言葉遣いだが(まぁ、よい意味には使われない言葉ではある)、もちろん全力で撮るつもりでは出かけているのである。お茶は全力で濁すのだ。
僕と彼女は、毎月アパートメントでライターとレビュアーという関係であり、数年前には写真の二人展もやったし、なんかしょっちゅう一緒にいる仲良しみたいに世間では思われていそうなのだけれど、実際には年に1~2回しか顔を合わせない。
よく考えたら実際に顔を見たのは9か月くらい前なのだと気づき、SNS時代の人付き合いって、逆に面白いな、などと考える。めったに顔を見ないけど仲は良い。そういう間柄が成立するのがいい。
写真表現という土俵では同志でもライバルでもある。年に1~2回しか顔を見ないのに、彼女とはしょっちゅう写真の話をしている。
そもそも、僕が原稿を書く、彼女がレビューを書く、というのも相当に濃密な対話だ。
とはいえ、まぁもちろんたまには顔も見たいのである。お互い忙しいので、この日なら、というのを擦り合わせた結果、たまたま僕が5000回シャッターを押した後のこの日、となったわけだった。
まぁ、目も体も酷使したあとの、長駆、自転車で夜の長居公園にかけつけての撮影。ちょっと無理があったのかもしれない。
なんせ目が見えない。ピント合わない。
予定のマニュアルフォーカスレンズをAFのものに換え、それでもファインダー内でちゃんとピントが来てるのかどうかも確認できない。あわわ、こんなはずでは。
せっかく来てもらった藤田さんには申し訳なくも、短時間で撮影終了となりました。9か月ぶりに会って1時間で解散。
いろいろすみませんね藤田さん。ぐでぐでで。
(この記事のレビューも彼女が書くのだが)
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で、さっきさらっと書いたのだが、「お茶を濁す」という言い回し。
今日はちょっとこっちに脱線してみようと思う。
お茶を意図的に濁らせるとはどういう作業だろう。イメージとしてはお茶をだらだらとかき回しているうちに濁っていく感じ。
いやしかし、お茶が濁るとは? とふと気になった。
抹茶は濁っているが、お茶を「濁す」とあるからには濁ってないものを濁らせるのである。ここで使われるお茶は抹茶ではないだろう。
お茶が濁るというのは、いちばんよく経験するのは紅茶を冷やして飲むときだ。熱く入れた紅茶を氷で一気に冷ますという方法でアイスティーを作ると、タンニンとカフェインの急な結合で白っぽく濁ってしまう。
これでは見かけが良くないというので、店で出されるアイスティーには濁りにくいアールグレイなどの茶種が使われることが多い。
ちなみにアールグレイが濁らないというのは、あのお茶は柑橘系(ベルガモット)の香りを後付けするので、茶葉自体はあまり高級なものを使わないからだ。タンニン含有量が少ないから濁らないのである。
しかしお茶を濁すという言葉が生まれたのは紅茶を冷やして飲む話とは関係なさそうだし、緑茶ってそもそもそんなに濁るだろうか。氷で一気に冷やせば紅茶と同じ理由で緑茶も濁るかもしれないが、緑茶を氷で一気に冷やして飲む習慣は「お茶を濁す」という言葉が生まれたころの日本にはなかっただろう。
実は僕は紅茶にはけっこう詳しい。
昔働いていたカンテ・グランデはエスニック・カフェの走りであるが、ちゃんとした紅茶専門店でもあった。インドやスリランカから紅茶を輸入し、単産地のものや、店でブレンドした紅茶も出していた。
カンテで働いていたから紅茶には詳しい、みたいな感じの書き方になってしまったが、正確には、カンテに入る前から紅茶のことについて学んでいた。
堺にあった「クイーンズ・アームス」という、紅茶狂のおばさんが一人でやっていた紅茶専門店があり、そこに学生の頃からよく通っていたのである。フォートナム・メイソンの紅茶のほぼ全種が揃っており、サイドメニューは店で焼くチーズワッフル1種のみという、紅茶のためだけの店。
だいたいのことはそこで店主のおばさんに教わった。
教わったというか、ある意味叩きこまれた、と言ってもよい。
お茶が濁るという話に絡めるならば、お茶が濁る原因たるタンニンとカフェイン、これは緑茶にも紅茶にも含まれるのだが、新芽を摘んだお茶ほど多く、また加工したてのものほど多い。
蕎麦屋さんに新蕎麦の時期があるように、紅茶屋も新茶の時期というものがあるのだ。
「ダージリンのファーストフラッシュのすごいの入ったわよ」
なんて言って淹れてくれるお茶は、もう舌にビリビリ来るほど刺激が強く、紅茶とは別の飲み物を飲んでいるかのようだ。美味いのだが、相当キツイのである。
「なんか 『すごい』 ですねぇ、たしかに」
「でしょう。あ、そうそう、烏龍茶もいいの入ったから飲んでみる?」
烏龍茶ならマイルドだろうと考えるのも甘い。台湾の、発酵の浅い系の良い物(の新茶)になると、味はたしかに温厚に思えるのだが、その実、胃に来る刺激は相当なものだ。
ファーストフラッシュ・ダージリンと凍頂烏龍茶、2ポット分(4杯以上)の「すごいやつ」を飲んだ僕は、帰りの道すがら、胃からの突き上げで道端に座り込み、げえげえとさっき飲んだ「すごいやつ」を吐いてしまった。
店主のおばさんくらいの猛者にならないと、「すごいやつ」2ポットなんてもんは飲んではいけないのである。おそるべきクイーンズ・アームス、まさに紅茶の国の軍隊である。
後日、こないだのダージリンで胃痛になって吐いちゃいましたよ、と、報告すると、おばさんは涼しい顔をして「ストレートで何杯も飲んだらキツいわよね」とか笑ってる。いやいや、ファーストフラッシュにミルクなんか入れたらもったいないわよ、とか言ったのは誰?
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お茶を濁す、なんて言葉をたまたま使ったものだから、濁るお茶 → タンニンとカフェインのせい → ファーストフラッシュのダージリン → クイーンズ・アームスで出された「すごいやつ」の思い出、と連想が走って、懐かしい話を思い出してしまった。
堺市市之町東にあった紅茶の軍隊は、おばさんの引退とともに、今はもうない。
ちなみについさっきTwitterに流れてきた記事で知ったのだが、茶道の黎明期、戦国武将たちが茶に熱中したのは、カフェイン耐性のない当時の日本人にとって、茶は十分な酩酊ドラッグだったのでは、という話。
なんかわかる気がする。苦痛と快楽は紙一重なのである。