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3F/長期滞在者&more

過去の展示 2つの『風景について』(2012 / 2015)

長期滞在者

今月も過去の展示の振り返り。

・・・・・・

これまで『風景について』という名の展示を二回行っている。

長く写真を撮っていると、写真が写るとはどういうことか、というそもそもの不思議を考えるようになる。
レンズを通ってフィルム(もしくはセンサー)上に結像する外界。別に写真に限定することなくても、写真が写る仕組みのモデルとなった眼球と脳の仕組みを考えてみても、眼前の風景を風景として識別することじたい、「見える」という仕組み自体がそもそも謎に満ちている。

目の前に何かがあると視覚が感知するには、なんらかの光が必要だ。目の前に一匹の猫がいるとして、その猫が猫に見えるのは、なんらかの光源が発した猫に当たり、その反射光のうち、たまたま自分の目の方に向かってきた光を見て「ああこれは猫だ」と経験記憶的に紐づけて感知するわけである。
四方八方に反射した光のうちの、こちらに向かわない部分は認識に関与しない。こんな偏狭な情報で僕らは世界を感知していて、「世界」の大半はその背後に隠れてしまっているのだ。
そして人は、そんな偏狭な画角から見たものごとを、さらに見たいように歪めて認知する。脳はその意味で都合よく優秀であり、同じ意味でポンコツであるとも言える。

視覚のメカニズムを、レンズとフィルム(もしくはセンサー)に疑似的に置き換えたものが写真なのだが、こちらは機械の話であるから、まさに機械的に写真は眼前の光景を拾い上げる。
もしかしたら、自分が見たいように見る視覚と、見たくないものも拾い上げる写真機の仕組みの差異が、写真というものの面白さなのではないか、とも思う。軽薄に言うなら「ギャップ萌え」か。違うか。

自分のチンケな美意識のようなものを、こまめに壊してくれるのも写真の面白いところである。絶えず意図せぬものまで拾い上げてくる写真という仕組みは、まさに「見たいものしか見ない」視覚にケンカを売る装置だと言える。
そうやって撮れば撮るほどに混入するノイズは、日々自分の美意識的なものを削り、変形させ、鍛え直してゆく。
そういう波形に乗れたときというのは、びっくりするくらいに写真が走り出す。この『風景について』のシリーズを撮っていたときというのは、面白いほどに写真が「撮れた」。多分僕の写真のキャリアの中で、一番写真が走っていた時期である。

今はなくなってしまったが神戸元町にタントテンポというギャラリーがあり、そこで当時毎年末に行われていたグループでの企画展示があった。それに二度ほど呼んでもらえて参加したことがあるのだが、その二回目に展示したのが最初の『風景についてである。29点の写真があるが、実際の壁面はここから10点選んで壁に架け、残りを同寸のプリントでポートフォリオにして並置した。
基本、販売を目的とするギャラリーであるから、スナップ主体の僕のような写真でもステートメントのようなものが求められた。「カメラと眼球のギャップ萌えですよ」の一言で済ますわけにもいかず、あれこれ文言を考えた記憶がある。
長々と書いた当時の文章をいちいち引用するのも今となっては気恥ずかしく、サビの一文だけを再録することにする。

「風景」とは、見られる前からそこにあるのではなく、僕がそこにいることによって立ち現れる、世界と僕との共謀の産物である。

ステートメントもクソもない、あたりまえのことを言ってるだけなのだが(笑)
自分の偏狭な美意識を風景はいつもなにがしか壊してくれる。しかしその風景は僕が介在しないと存在すらしない。そのせめぎあいが写真であり、共謀という言葉はかなり正確にそれを語れている気がする。



『風景について』2012 Gallery Tanto Tempo



もう一つは当時ホームグラウンドにしていたギャラリー・マゴットでの個展(2015年)。
マゴットの閉廊が決まり、最終週のオーナー大木一範氏の個展の前に、「止め焼香」展示として個展をした。

大阪四ツ橋にあった、ビルの七階から四ツ橋筋を見下ろせる眺望の良いギャラリーで、大木さんに「なんかマンハッタンの画廊みたいでいいですよねー」などと言っていたが、もちろんマンハッタンの画廊が実際どんなところなのかは知らない。
ここで二度の個展と何度かの二人展・三人展、数知れぬグループ展に参加した。いいギャラリーだったなぁ。

三年前のタントテンポの『風景について』の展示が自分でも気に入っていたこともあり、その続きのような展示をしたいと思っていた。
正直に言うならばタイトルとか説明書きとか、そういうのを考えたくなくて、そんなものは当時の自分の写真にとってたいして重要ではないと思っていたので単純に『vol.2』にしたのである。
そんないいかげんなタイトルに縛られたわけでもないが、同じような枚数の、同じようなテイストの展示となり、『vol.1』とあわせて、今でも自分で気に入っている写真群である。三年経って、まだ僕の写真は同じテンションを維持できていた。

今回この頁を書くにあたって改めて2つの『風景について』をよく見てみたが、本当に、雑な言葉で言うけれど、この時期の僕は我ながら冴えてる。過去の自分が眩しいぜ、嗚呼。


『風景について vol.2』2015 Gallery Maggot

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

よい写真を見ると、その瞬間ぐっと目と意識を掴まれて、自分の身が固くなる。
ほわっと、あちこちが緩むような良い写真もなかにはあるのだが、それはその「ぐっと掴まれて固まった」そのあとだと思う。

身を固くする、という言葉や状況にあまりポジティブな印象はないと思うが、いわば神経の興奮の結果なのだと思うので、ようは「刺激」されたのだよなぁ、という敢えて言い直すまでもないようなことなのだけど。

人によって、感じ方は様々であるのと同様に、感じさせ方も様々である。

身を固くさせられたな、と感じたあと、更にその自分の身体を分析してみると、凄腕の撮り手には色んな「その先」がある。

○○さんの写真は腹に響くような感じだし、△△さんの写真は脳を揉まれたような感じがするし、××さんの写真は目玉に圧がかかってくるみたい、、、とか、人によってもそんな違いを感じるのだ。

わたしはその感覚の違いを楽しむのも鑑賞の醍醐味と思っており、身体にわき起こる感覚の震源地を眺めて楽しんでいる。

さて。そんな楽しみ方をするひとはそう多くはないのかもしれないが、カマウチさんの写真を見るとそういった感覚を自覚しやすい気がする。

初めて自分が写真をみてそういった自分の変化に気付いたのが誰の写真だったかは残念ながら記憶にないのだけれど、気付かせてくれた複数いるなかのひとりに、確実にカマウチさんは居たのだった。
そう言われてどうだろう。鑑賞するご自身の身体に、ひとつ問うてみてほしい。きっと何か、写真を見るということを通じて、なにかどこか、不思議な感じになってやいないだろうか。

写真一枚からでも、複数の並びや、写真の大きさからの圧みたいなものも、そういった刺激を作る仕掛けの集合体だったりする。
音の流れでメロディができて、物悲しげに聴こえたり、情熱的に聴こえたりするように。
目からの刺激だけでも何か、自分の内部に湧き起こる感覚が音楽のように違う感覚や感情に導こうとしてくれていたりする。

そんな理由で、写真を見るのは楽しいな、と、わたしは思うのでした。

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