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3F/長期滞在者&more

あのとき数学部の部室で気がついてしまったあれ

長期滞在者

高校の頃、僕は文系だし数学なんて大の苦手だったが、数学部の何人かと仲が良く、部室には学校に秘密で煮炊きの設備があったりして、そんなこんなで部員でもないのによく数学部の部室にたむろしていた。
ある日、その数学部の部室で、何人かでサッポロ一番か何かを食べながら、ふと誰かがつぶやいたのだ。

「もしかしたら、『正しいこと』っていうのは存在しないのでは」

何の会話の続きなのかも思い出せない。そこだけがクリアに頭に残っている。
「正しいこと」なんて存在しない。こんなこと、今となっては当たり前のことであると思っているし、逆に高校生になるまで世の中にはきちんと「正しいこと」というのが存在するのだと信じていた、という事実が可愛らしくもあり懐かしくもある。
世の中には絶対的に正しいなんてものは何もないのだということは、大きな悟りでもあったわけだが、足もとの地盤を砕くような、そういう不安もそこから始まるのだ。
正しいことなんてない世界で、じゃあ僕らはどうやって、何を是として生きて行けばいいわけよ?

そこにいた何人かが、一斉に、同じ真理に気づいてしまった変な興奮と、同時に不安の誕生を共有し、みんな変な顔をしていたのを思い出す。
それから二十年以上経って、その輪の中にいた一学年下の後輩S君と街中でばったり遭遇し、わぁ久しぶりですねぇ、の次にS君が言った言葉が、
「あのときの数学部の部室の会話、覚えてます?」
そうだよ。あれはやっぱり、大きな事件だったよね。

絶対的に正しいことなんて存在しない、という「発見」が、曖昧さを拒絶するはずの「数学」部の部室でなされたことも面白いが、のちにその数学でさえ、もっと高等数学に進んでいくと極限は曖昧という境地に突入すると知るわけで、逆になかなかお誂え向きの場所であったともいえる。
正しいものなんて何もない、という俳句よりも短いこんな言葉が、しかし十代の僕らには地殻変動的に衝撃で、他の人は知らないが、僕はそれから長らくその揺れに悩まされた。S君もそうだと言っていた。建物の屋台骨が、架空の柱だと知らされたのだ。揺れない方がおかしい。

しかしその数年後、どこかの学生劇団のやってた小さな演劇(たぶん、つかこうへいの戯曲だったはず)の、役者の一人が舞台で発した短いセリフが、いったん綺麗にこの揺れを収めたのだ。
「正しいことなんて無数にある」

実際のところ、これは「正しいことなんてない」ということを、単純に言い換えただけの話である。無数にあるから、絶対的なものなんてない。同じことを言っているだけなのだ。
実際何も解決していない。
なのに、揺れが少し落ち着いたのだ。言葉の魔法か。単なる言いくるめか。

同じことを言っているけれど、虚無で語るのと、多様の極限として語るのではここまで揺れの種類が違うのだ。どうせなら肯定的な言葉で、みたいな嘘くさい人生指南みたいな話とも違うから気をつけてね。
虚無の先には虚無しかなくそこで思考は停止するが、正義が無数に乱立する世界の中では、もう僕らは見て考え続けるしかないではないか。無数の正しさの乱立の中で考え続けること。断を下すのではなく見続けること。逃げの相対論に堕すことなく正しさを考え、しかしその正しさの揺らぎを肯定し、また正しさなんかに拘泥しないこと。

S君、難しいよなぁ。


最近の夜間徘徊写真(スマホカメラ)
カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

言い換えただけのふたつの同じことを言い表すようなことば。

しかし、言い換えただけとは言い表せないようなその大きな違いを、宇宙の果ての星の話でも聞くような気持ちで受け止める。

ゆらゆらと着地点の見えないまま、漂うように身を任せつつ、そうだなぁ、と、思う。

僕らはすでにそれを知っているような、未だそれをまったくわからないでいるような、そんなことである。きっと。

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