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3F/長期滞在者&more

尼崎円環魔境

長期滞在者

最近決まりきった道で通勤するのがつまらないと思って、帰り道はできるだけ毎回違う道を自転車で走ろうと節操なくルートを変えている。それで遠回りになったとしても、いつも通る見知った場所と見知った場所が思わぬ繋がり方をしているのを発見したり、頭の中の尼崎地図が日々書き替わっていくのが面白い。

先日、阪神尼崎駅前から北上する幹線道路の、その一本西の裏道を走って帰っていたのだが、その幹線道路じたいが北西に傾いて敷かれているため、北上する裏道を通ってもすぐに幹線道路に突き当たってしまう。
それで、少し余計に西側に入り込み、感覚的には幹線道路に並行するつもりで自転車を漕いでいた。
交通量の多い幹線道路に突き当たりたくないという左寄りの重力と、街灯の少ない暗い道で感覚が狂ったということもあるのかもしれないが、それにしてもそのうち突き当たるはずのJRの線路がいつまでたっても見えてこない。
幹線への過剰な忌避感で、思ったよりも西に斜行しちゃってるみたいだな、それにしてもJR遠いな、どんだけ西にズレてるのか。。。。
と、気がつけば、眼の前に、かなり前に通ったはずの、国道の交差点がある。
・・・・・・。

え?

いつのまにか、西にずれるどころか、ずれにずれを重ねて、西向きに一周してしまったのだ。

「じさまは狐に化かされたのじゃった」

市原悦子の声が聞こえる。
いや、本当に日本昔話の世界である。

p02

僕は人に比べて著しく方向感覚が欠如しているとか、そういうことは思ったことはないのだが、現にこんなことをやらかしてしまうと自信がなくなってくる。
(数日後、どこで間違えたのか確かめようと、同じように幹線から付かず離れずのつもりで走ってみたら、またもや同じ国道へループしてしまったことを報告しておく。冗談でなく尼崎には狐がいる)

・・・・・・

ついでに、というか、少し思い出した話があるので書いてみよう。

・・・・・・

自転車で大阪方面にでかけた時、尼崎へ帰ってくるのに野田経由で2号線を通る場合と、阪急神戸線沿いに帰ってくるルートがあり、阪急沿いルートを通った場合、阪急園田駅の手前で神崎川・旧猪名川・猪名川・藻川の四本の川が合流する箇所があって、この四本の川に分断された土地がそれぞれベロとノドチンコのような複雑な形状を織りなしてる。
今まで線路沿いに走ってきた道はこのノドチンコ状に分断された土地を渡るために少し複雑に折れ曲がり、慣れないと入り組む川に阻まれてまっすぐ抜けることができない。

以前一度梅田で真夜中まで飲んで終電をなくしてしまい、歩いてこのルートを帰ってきたことがあったのだが、土地勘がなかったため旧猪名川を渡河する橋を見つけられず、豊中側へどんどん北上してしまった。しかもなぜか墓地に迷い込んでしまい、俺は夜中の2時に墓場で一人何をやっているのか、と情けない気分になったものだった。

とにかく、この川の入り組む東園田周辺は、複雑に分断されて一筋縄では通行できないようになっており、僕が戦国時代にこの辺の領主に生まれたとしたら園田の中洲に城を築いて敵を遮断するだろうな、というくらいにややこしいのである。
実際は旧猪名川に突き当たる前に線路から離れて少し南下して橋を渡る、が正解。
今ならスマホのGPS付き地図機能で簡単に道がわかるかも知れないけれど、僕は最近までガラケー使っていたので、行きつ戻りつしないとなかなかこの道筋を発見できなかった。
無事橋を渡ったあとにも、ちょっと方向を誤ると、ベロ状の砂州を一周して元の渡河地点に戻ってしまうという怪奇に遭遇する。
わかってしまえば別に怪奇でも何でもないのだが、それでも最初、元の地点に戻ってしまったときには本気でアヤカシのせいかと訝しんだものだ。

rrr

渡っても渡っても川が出現する。川が四本合流している、という特別な地形に騙される。昼間なら見通しもきくのかもしれないが、いつもここを通過するのは夕方とか夜なので、何度も混乱した。
何度も何度も間違えて、それでも地図で調べようと思わなかったのは、どうやらこの「川の魔物に騙される」感を楽しんでいたフシもある。
スマホの地図機能は便利だけれど、こういう魔物を滅ぼしてしまう。いいんだか悪いんだかわからない。

・・・・・・

不思議ついでにもう一つ。

無事このベロ州を通過して一番西側の藻川を通過したあと、高速道路の真下の道を走って家に帰るのだが、南から高速の下に入る時、これが怖いくらいに百発百中(今のところ)なのだが、ゾワッ、と体温が何度か下がるような、いや「ような」ではない、実際に必ず悪寒が走るのである。ゾゾ毛が立つ感覚。体の芯を冷風が抜ける。
川が入り組む複雑な地形の中を東西に一本突き抜ける高速道路がある、それがキレイな風の通り道になっているのだろう。
そう理解していた。
そして毎回そこを通過するたび、ほら例のゾゾゾが来るぞ、来るぞ、ぞぞっ! ほらね。みたいな感じで、その現象をわざわざ確認するようにもなった。
わかってはいても、ぞわっと体温を持っていかれる感じは気味が悪い。気味が悪いからこそ、何度もその気味悪さを試したくなり、別の道もあるのにわざわざそこを通ってしまうのだった。

ところがである。
最近近しい人の葬儀があり、斎場からの帰り道、気がついたのだ。
斎場を出たバスは目の前の高速道路の下の道をくぐった。そしてそこはいつも僕が自転車で冷風を感じる、あの場所なのだった。

え?

いつも僕の体温を下げる高速道路の真下、あの地点。知らなかったのだが、その裏が斎場だったのだ。
僕があの地点を通過するたび必ず冷気を帯びるのは、一直線の高速道路が風の道を作っているからであって、それ以外の理由はなにもない、はずだ。
しかし人の魂は西に向かって行くという古来よりの伝承に拠り、あそこは「そういう道」なのだと、考えることもできる。

信じるも信じないもあなた次第です。
僕? 僕は信じてはいないですよ。

でも最近「信じない。高速道路が東西にまっすぐ走ってるから風が抜けやすいだけ」という当たり前な理屈が、なんだかつまらない、と感じている。
斎場の真西だから冷気が走る、とか言うのは、ちょっと話がベタすぎな気はする。それはそれで「もう一方の理屈」というやつである。
無理にオチをつけようとするから胡散臭くなるのだ。
「何かあるのかもねー、人間にはわかんないけど」
くらいのスタンスがきっと正しい。
これは決して思考を放棄しているのではない。そこのところややこしいけれど、まぁ話を聞いてほしい。

前に水木しげるの本を読んでいて思ったことなのだが、異界が「見える」人と「見えない」人の差というのは何だろう、と考えたのだ。
結局同じ現象を、ある人はこう感受し、ある人はこう感受する、という、それだけのことなのであって、何かがあるとかないとかいう話ではないのではないか。
たとえば僕の友人某は「見える人」で、沖縄南部の激戦地跡などに行くと、もうやたらと何かを感受する。もう立っていられないくらいに、と。
僕なんかは、人間は自分の死も知覚できないし、もとより意識というのは生きている間の脳が作り上げた現象に過ぎないのだから、霊魂的なものが残るということはあり得ない、と思っている。
では僕とその友人某の言っていることは相容れないことだろうか?

あるとかないとか、見えるとか見えないとか、そういうことじゃないのだ、多分。
何かあるんだけど、それが何かは、人間ごときには簡単にはわからないのだ。
見えるというその友人も、そんなものはないと言ってるこの僕も、どっちも、何にも達していないのである。

そんなものはない、という僕は思い上がっている。僕に何がわかっているというのか。
同時に、「見える」というその友人にも、たぶんそんな簡単なものじゃないぞ、と言いたい。
思考を放棄しているわけではない。そんな簡単に理屈に落として終わりにしていい話ではない、という意味である。話はもっともっともっともっと複雑なのだと思う。

斎場の西に冷たい風が抜けて通過する人の体温を下げる。
その冷たい風は高速道路の軒下が作り出すものでもあろうし、他の何かが原因してもいるだろう。
ただ、ちょっと強がり気味に、冷静な風に書いては見たものの、西に向かって何かを運ぶ何かのせいである、というのは、実際ちょっとわくわくする話である。こんな僕でも「何かはわからないけど」という留保を一言差し挟みつつ、正直愉しんでいる部分はあるのである。

カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

思考すること。
そして得られる、わくわくとかおもしろさとか、冒険心だとか。
検証なんて野暮なものは必要ない。
そして言うまでもなくそんなものは必要ないというより出来ない。
ただただ、「へぇ」と、足を止める前にもう一歩踏み込んでみるというその一歩に対して、どういう価値を見つけられるか?という事なんじゃないかなと思う。

わたしはそこそこの方向音痴の自覚があるので、自分の方向感覚をあまり信じていない。
ちょっと考えたらわかる(はず)の道を、「えええ」と、引くような間違え方をしたりする。
何度も通った道を覚えていられなくて毎回のように間違えたり、本当はすぐそこなのに大回りでしか到達できなかったり。はたまたその事に何年も経ってから気付いたり。
こうして書くと、「そこそこ」ではなく、わりと重症なのかもしれない。

方向音痴はわりと多くの人が個性(というかなんというか)として持っているので話は早いのだけど、同じように何かしらに対してセンスがない(=音痴)ということを自覚していれば、いろんなモノゴトを自分の⚪︎⚪︎音痴の所為にしてしまって、実は身近に起こっている不思議現象をスルーしがちになる、なんて事はないだろうか?

自分には欠落した感覚があるのだ、と思い込んだり信じてしまうと、世の中にある「不思議」というものの多くは消滅するのかも。

「ああ、きっと自分のことだ、忘れたのだろう」「わたしはぼんやりとでもしていたのだろう」「あれ、どうだっけ(まあいいか)」

そうしてなんとなく溜飲を下げていく。
いろんな事がなかったことになる。
思考停止というべきか。
宇宙からのなにかしらの重要な信号の数々も、誰かの「ああわたしまた寝ぼけてたのね」で、日夜なかった事に。

面白い・面白くない以上に、不思議への不感症はよろしくなさそう。
いつもよりちょっと余分に全てを疑って、世界や街を見てみるのも、きっと楽しい。
不思議な世界は、尼崎だけでなく、そこかしこに入り口を持っているのだろうから。

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