まずは修行僧2月分から何枚か。
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四六時中カメラを持って写真を撮る人間であるから、僕はそういう部分ではマメな性格であるといえる。
写真というのは撮るばかりではなく、選び、編むことに膨大な時間を要する。マメでないとできない。
けれども、それと相殺するように、僕は不精な部分はかなり不精で済ますことが多い。
僕と同じ職場の人は僕が年がら年中同じスタンドカラーの黒シャツを着ていることを知っている。ここ10年くらい変わらない。
いつも同じ服なので「着替えてないんじゃないか」とか思われてそうだが、実は同じシャツを10着以上持っていて、もちろんちゃんと着替えているのである。
某厨房ユニフォームメーカーの製品で、厨房着というのはガシガシ洗われるのが前提だから、やたら丈夫にできている。素材自体が強く、それが10着以上あるからローテーションで着て10年経ってもちっともヘタらないのだ。
このぶんだと退職の日までずっと黒シャツを着ていることだろう。
靴もここ15年、いやもっと? 忘れたけれど、Dr.マーチンばかりだ。これは収集癖に堕さないよう所有7足以下とルールを決めていて、1足履きつぶしてしまうまで次は買わないことにしている。
7足あれば平均1週間に1日しか履かれないので、そんなに傷まない。欲しいデザインの新作が店頭に並んでも、1足履きつぶすまでは新しく買えない決まりだから、最初から物欲も抑えられる。1足ヤバくなってきたところで、はじめていそいそと次買うデザインを物色すればいいのである。
服とか靴とか、悩めばキリのない話であるから、人生とうに半ばを過ぎていろいろ時間の使い道にも決断が必要になってきて、職場で着る服とか、今履いてる靴が傷んだら次何を買おうかとか、そういうことに悩む時間を極力省いてしまおうと思ったのだ。
靴はマーチン。いや、実のところDr.マーチンがそんなに優れた靴かと聞かれれば、今どきいくらでも似たものも機能的にもっと優れたものもあるわけで、ただ若いころから履いてる流れで、もうこのまま行っちゃえと決めたに過ぎない。不精発動である。
最近ではこういう不精も極まって、(以前にも書いたように)冬の間はほぼずっと同じ格好で、雨が降っても降ってなくてもワークマンの防寒レインウェアだ。
自転車移動なので、その日に雨が降るかどうかは敏感になっていなければならないのだが、毎日天気に気を使うのもだんだん疲れてきて、結果「別に降ってなくても防水のもの着てればいいやん」ということに落ち着いてしまったのである。この2年は冬はずっと同じワークマンだ。これはさすがにどうなのか、と自分でも思うのだが。
(寒くない季節は濡れてもどうってことないので、もっと自由に服を着ている)
ついでに、これは不精ということなのかどうなのかわからないが、最近同僚(女性)と話していてびっくりしたのが、夫がハサミとか所定の位置にしまわないので困る、みたいな話。何をびっくりしたかというと、その家にはハサミは1本しかないのだという。
僕なんか、各部屋、各場所に数本ずつ、ハサミも爪切りも置いてある。家のハサミに集合を命ずれば20本は出てくるだろうし、爪切りも覚えている限り10個はある。探せばどこかからかは出てくる仕掛けだ。
なぜそんなに必要なのかと彼女が問うから、なぜあなたの家にはハサミが1本なのかと僕が問い返し、話は平行線だ。これは不精というより、それぞれの考える合理の話だ。
仕方がない。正義は星の数ほどあるのである。
ところで僕がハサミなんか何本も各所に配置すればいいじゃないか、という考えに至ったのは、知ってる人は知っているだろう、高野文子『るきさん』の影響である。影響と言っても、読む前からうちも10本派だったのが、『るきさん』を読んで「やっぱりそうだよねー」と激しく同意したというか。るきさんが言うなら間違いないというか。
そうそう、高野文子と言えば彼女がキャラクター原案を務めたアニメーション『平家物語』(山田尚子監督)見てます? もう最高ですよね! 高野文子の画が動くんですよ! 夢の世界です! すみません、興奮してしまいました。余談でした。
余談といいつつ、もう少し続けてもいいだろうか。
高野文子である。『平家物語』である。
高野文子というのは寡作な漫画家なのに、ある一定以上の年齢の、ある特定の文化層に属する人間には特別な存在だ。別に大ヒット作があるわけではない。しかし今まで何人の人と『絶対安全剃刀』最高ですよねっ! という会話による異様な高揚感を分かち合えたことか。
高野文子がアニメーションのキャラクター原案を手がける、と聞いた途端に僕の脳に火花が散ったし、それが平家物語だと聞いて、さらに火花が電流になった。
僕だけではない。SNS界隈で各所にこの電流の花が咲いた。「高野文子が!」
実際にこのアニメーションは高野文子の原案そのままでないのに、キャラクターデザインの底に高野文子のたしかな香気が据えられていて、毎回びわが、徳子が、敦盛が動き語るたびにその香気が漏れ出る喜びに満たされる。
アニメーションというものに、正直いままで興味がなかった。僕の中のアニメは小学校高学年での『未来少年コナン』(あれはいいね)あたりでストップしているし、大人になってからは一部のパペットアニメーション(チェコの作家陣やニック・パークなど)に熱中したことがあるけれど、日本のアニメーションというのは意識して避けるくらいに交わらずに生きてきた。
しかし薄々は感じていたのだろう。おそらく相当に奥深い世界であろうということを。感じてなお避けてきたのは、もちろんお得意の積極的不精というやつである。こんなものに関わっている暇は僕にはないのだ、僕には僕でやることがあるのだ。そう思い込みすぎてきたきらいがある。
しかし何というか。目を覚まされてしまったな。
凄いとわかってて、世界に目をふさいで生きていてどうすんだ、みたいな。今さら?
あ、シャツは変えませんけどね。こういうのはいいの。