「自分の」写真に使い始めたのは四年ほど前からだが、仕事(営業写真館のカメラマン)の写真ではもう十年以上デジタルカメラを使っている。最初はフィルム用カメラと違って繊細そうなカメラ(高価でもあった)を怖怖使っていたが、実際使ってみると案外頑丈だし、別に今までのカメラと同等の扱い(要するに手荒)をしても問題はないことがわかってきた。
僕が今仕事で使っているカメラは二台ともに十年選手である。最新のカメラに比べたら画素数としては少し足り苦しい感じがするけれど、「比べれば」の話であって実用上は十分だ。画質的にも二台とも好きな機種なので、できることならずっと使い続けたいくらいである。
僕がずっと自分の写真の展示に使ってきた顔料プリンターも八年間稼働して、部品供給が断たれたので仕方なく引退させたが、ついに大きな故障はなかった。
僕の使っている範囲に限っての話なのかもしれないが、デジタル写真関連の製品というのは案外に頑丈で長持ちする。昔のライカやニコンFみたいに四十年動くか、といわれればわからないけれども、そしてもしかしたら僕の道具運が良いだけなのかもしれないが、それにしても、想像されるほどにはヤワな道具ではない(もちろん数年置きにきちんとしたメンテナンスに出している)。
商売として、メーカーは同じカメラを十年も使われたら商売にならないだろう。現に使っている二機種はすでにメーカーの部品保有が終わっている。次にどこかやられたらおしまいである。昔はメーカーは生産中止後十年間部品を保有する、と言っていたが、最近は修理対応期間が短くなっている。これはメーカー自体が、自社製品のタフネスを見くびっているのではないかと思う。
壊れやすい、古びやすい、という印象は新製品を次々買ってもらいたいメーカーがあえて流す嘘、とまではいわないが、誇大に弱ぶっている気がしないでもない。壊れすぎたら悪評を買うし、頑丈すぎたら買い直してもらえない。その辺のイメージのバランスにメーカーも苦慮しているのだろうか。
そして画質面でも十年前のデジタルカメラの画質は、最新のカメラに比べて実は「悪い」わけではない。具体例を挙げるなら、今言ってる二台のうちの一台はキヤノンEOS-5Dという機種だが、今は二世代型遅れのこの機種の画質は、個人的には最新機種(EOS-5D3)よりも好もしく思える。無理に画素数を上げなかったことで階調に鷹揚とした余裕があるし、今のカメラほど感度を上げられないといっても、元々フィルムで撮ってきた人には元々こんなもんである、という感覚があるから不便に感じないのだ。
ところがその十年選手のデジタルカメラ二台が、謀ったように、十年目にして、最近(ようやく)調子が悪くなってきたのである。大きな問題にはならないが、使い勝手の部分の劣化(ガタ)もあるし、電子系のエラーもたまにある。前述のように部品供給のすでにないカメラであるから、そろそろ潮時というやつなのかもしれない。
仕事用カメラで十年といえば、フィルム時代であっても天寿に近い。
たまたま運良くなのか、デジタル製品がこうも長持ちしてしまうので、実際にデジタルカメラを「使いつぶす」のは、ほぼ初めての経験となる。コンパクトカメラは壊れたことがあるけれど、仕事カメラである一眼レフの最期に立ち会うのは初めてだ。もちろん「最期に立ち会う」イコール「仕事で失敗」なのであるから、絶命する前に引退させるのだが、まぁ、それでも最期は最期である。
フィルム時代には、何度もカメラを「使いつぶす」経験をしてきた。一眼レフも何台もオシャカにしたし、気に入っていたコンパクトカメラを壊れるたびに計四回、同じものを買い直したこともある。まぁ、昔は写真というものはそうやって機械を酷使しながら覚えていくものでもあった。
それを考えると、はじめてデジタル一眼レフの臨終に立ち会う、というのも感慨深いものがある。
ところで唐突に話は脇道にそれるが、吉村昭の小説『羆嵐(くまあらし)』、あれが日本最高のホラー小説であることにご同意いただける方も多いと思う。新しい入植地で村民が次々とヒグマに襲われていった実際の事件に取材したものであるが、凄い小説なので未読の方はぜひぜひ読んでほしい。
デジタルカメラからいきなり吉村昭って何だよ、と言わず、まぁ続きを。
その小説の中に出て来た、新しい入植地で最初の死者が出て、それを埋葬して初めてその土地は人々が根を下ろすことができる、という描写に、読んだときいたく感銘を受けた。最初の犠牲者(妊婦)が熊に殺されて一同恐怖と悲しみに暮れる場面で、筆者の吉村昭が場面外からそういう説明を挿入するのだが、埋葬によって新しい土地と住人がはじめて本当の縁を結ぶ、という視点に虚をつかれた。しばらく凄惨な小説であることを忘れてしまうくらいにはっとさせられたのだった。
ヒグマの襲撃とデジタル一眼レフの話を比べるのもどうなのだ、という感じはするが、大げさすぎるかもしれないが、このデジタル一眼レフの最期にあって、この二台を使い潰したことの、儀礼的な意味のようなものを考えてみたのである。十年かかって、デジタルカメラというこの新しい入植地に、はじめての埋葬を行うのだ。
この入植地でこれからも鍬をふるうのだ、といった覚悟のようなもの、なんていうと大げさすぎて笑われるだろうか。
いつまでもフィルム時代を惜しんでばかりもいられない。写真は続く。
フィルムが消滅しようがカメラがいくつ壊れようが、写真は常に新しい開墾地を耕し続けなければならない。
次のカメラを使いつぶすころ、どんな光景を相手にしているか想像することも楽しい。
と、いいながら、載せる写真はなぜか銀塩モノクロ。すみません。
(2015.10 ”Slide Show” Kamauchi Hideki vs. Nozaka Miu -Gallery Hommage- より)