ブラック企業や自殺未遂、生活保護。こうした話は、多くの人の関心を引く。でも、それをきちんと伝えることも、きちんと受け取ることも、とても難しいと感じる。その要因の一つは、語る方も聞く方も、少なからず興奮してしまうことだ。
語り手が興奮すれば感情は鮮烈に伝わるかもしれないけれど、できごとが歪んでしまうことがある。一方、聞き手はどうしても強烈なエピソードにゴシップ的な興味を抱きがちだ。無意識のうちに私たちは当事者の感情をおもちゃのように楽しんでしまうことがあるし、語り手がそれを感知すれば、感情の共有できなさに言葉が閉ざされることもある。ナイーブすぎるかもしれないが、苦しみを正確にわかりあうというのはそれほど困難で、不可能に近いことなのだと思う。
ただ、「苦しみ」ではなく「できごと」主体で語ることで、可能性は見えてくる。心が壊れてしまうほど大きく動揺した時、人は苦しみを中心に据えて語ってしまうけれど、その人が感じたことは、あくまでもできごとの一部に過ぎない。バランスを見誤らず、できごとを追体験させるような語りの中に、要素として感情を配置することで、苦しみが「わかる」ようになるのではないか。「わかる」というのは、必ずしも共感を意味しない。加工なしで差し出されたものを、まっすぐ受け取るということだ。小林エリコさんの自伝的エッセイ『この地獄を生きるのだ うつ病、生活保護。死ねなかった私が「再生」するまで。』は、そうした語り方で、壮絶な人生を伝えようとしていた。
小林エリコ『この地獄を生きるのだ うつ病、生活保護。死ねなかった私が「再生」するまで。』(イースト・プレス)
短大を卒業後、エロ漫画の編集職に就いた小林さんは、連日深夜まで仕事をしても終わらない、過酷な労働環境で働くことになる。月給は12万円で、残業代は出ない。ハードワークと貧困に追い詰められたある日、大量の向精神薬をアルコールで流し込み、自殺を図る。でも、小林さんは「死ねなかった」。目がさめると病院で、体からは生命をつなぐ無数の管が伸びていた。
精神科に通うようになった小林さんは、そこでスタッフから生活保護を受けることを提案される。生活保護について知識がなかった小林さんはことも無げにそう提案するスタッフの態度に疑問を覚えながらも、お金がなく、それ以外の選択肢がない。こうして、小林さんは生活保護の受給者となった。
生活保護を受けてからは、生きる意味を剥奪されたような日々のことが綴られる。メンタルクリニックも、生活保護課のケースワーカーも、社会復帰を支援してくれない。精神障害者はまともに生きられないから、という理由で、回復することをはなから期待されていない感じだ。その中で小林さん自身も、税金からなる生活保護費で暮らしていることに罪悪感を感じ、趣味を楽しんだり、友人たちと遊ぶことから疎遠になっていく。
”私はこの状況を「最低」だと感じる。どこにも所属せず、何の役割も持たず、果たすべき役目もない人生。空っぽで虚無だ。仕事というものは、どこかで誰かの役に立っている。その対価としてはじめてお金がもらえるはずなのに、私は何もしていないのにお金を得ている。一体何のために私は存在しているのか。”
がつんと殴られるようなタイトルと内容の本だけど、スキャンダラスな筆致ではない。それゆえに、過酷さがありありと浮かび上がる。そして淡々と続く日々の中にある不安が描かれている。困窮する人の苦しみは、点のようにではなく、帯のように幅を持っているものなのだ。そのことは、自殺未遂や生活保護という鮮烈な言葉や、あらすじからはこぼれ落ちる。この本ではエピソードを積み重ねることで、読んでいるほうも真綿で首を絞められるような、じわじわとした苦しさを少しだけ知ることができる。
中盤、小林さんはクリニックの待合室で、メンタルヘルスに関する本をたくさん出版しているとあるNPO団体を知る。編集者の経験を生かし、その団体に雇ってもらおうと小林さんが電話をかけたことで、事態は好転していく。最初は賃金の発生しないボランティアとしての採用だったが、小林さんは仕事を手伝いながら、少しずつ仕事をする喜びや、社会とのつながりを取り戻していくのだ。
10年ぶりにもらった給料でささやかな祝杯をあげる場面は、それまでと同じ静かな文体だけれど、歓喜に震える著者の姿が見えるようだ。黄金色のビールを喉に流し込み、パチパチと音を立てる鍋で唐揚げを揚げる。夕方のスーパーで割引された刺身を頬張る。
”普通に働いて、普通に生きたかった。その「普通」が、いかに手に入れるのが困難なものかを知った。宝石も高価な服もいらない。ただ、その日その日をつつましく生きたいと願っていた。”
そうして生活保護から抜け出した小林さんは、整った身なりで市役所へ向かう。堂々とした気持ちで手続きを進めている時、顔色の悪い20代の男性が「生活保護を受けたいんです」と職員に訴えているのを見かける。
”生活保護を受けられても、その先にもまた、地獄が広がっている。ただ、地獄といえども、休息はある。ゆっくり休んで地獄から抜け出せばいいんだ。顔色の悪い彼はかつての私だ。私は心の中で「頑張れ」とつぶやいた。”
「地獄」という表現を見て、本のタイトルに思いをはせる。個人的な話だが、「地獄」という言葉でこの世界を表現する時、そこにはどこか開き直りのような、希望を語ることを諦めた自分に折り合いをつけようとしているようなニュアンスを感じてしまって、あまり好きな表現ではなかった。だからこの本にもそうした開き直りがあるのかなと思っていたのだけど、そんなことはまったくなかった。人間としての誇りを最後まで投げ出さない、強い気持ちに終始つらぬかれていた。
「地獄」だという生活保護の日々から、小林さんは抜け出した。だから『この地獄を生きるのだ』という力強いタイトルは、今まさにその地獄で尊厳を見失っている人や、何かの拍子でその地獄に落ちるかもしれない僕たちを、鼓舞するために掲げられた言葉のように思う。
最終章「人生にイエスと叫べ!」では、小林さんのもとに申請していたクレジットカードが届く。彼女は「普通の人間としての審査に通ったような気がした」と、そのカードを眺めながら思う。
”またクレジットカードを持てないような日々が来るのかもしれない。そうしたらもう一度、持てるように頑張ればいい。人生が終わるわけじゃない。私はそれを知っている。立派に生きていたのだから、恥ずかしく思う必要はない。私は真っ暗な自分の過去に合格点を出した。”
その日々を否定したり、「二度と戻りたくない」とは書かないところに、自分の力で乗り越えた人の逞しさがあり、真面目さがあり、人生の美しさがある。この先何が起こるかなんてわからない。でも、勝ち取った強さは色褪せないし、絶望の日々を生き抜いたことは、再び闇が訪れた時、自転車のライトのようにそれを切り裂くだろう。だから、何も無駄じゃない。そう信じて、生きるのだ。