先月書いた写真修行僧の話。
毎月1冊、その月に撮った写真だけで写真集を作り、年12冊を完遂するというミッション。
1月号( A5サイズ96頁 )はすでに数日前に本が完成してビーツギャラリー* に納めた。
もう設置され閲覧できるので、ぜひぜひご覧ください。
後半になってきたら苦しいんだろうけど、まだ最初の月だから楽しい。
せっかく毎月1冊なんて特別なことをするのだから、いつもとは違うことを織りまぜてみようと考え、今月はコンパクトデジカメを使ってのモノクロ撮影でいくことにした。
僕は今までカラーはデジタル、モノクロはフィルムと使い分けてきたので、デジタルでモノクロというのをあまり撮ったことがない。モノクロ設定の jpeg 撮影だが、普段 jpeg で撮ること自体ないので、僕にとっては目新しいことなのである。
(去年の夏に、Dynagorn** の撮影をしたときに jpeg モノクロを初めて使ってみた。あのときくらいしかない。)
デジタルカメラの RAW か jpeg か、という話は、フィルムでいうネガフィルムかポジフィルムか、の話に似ている。もちろん RAW がネガで jpeg がポジだ。
あとから露光量や色温度やコントラストを調整可能な RAW 撮影はネガフィルム的な大らかさがあり、撮ったデータを大きく改変できない jpeg はポジフィルムっぽい厳密さが要求される。
僕はとにかく撮影時にあまりごちゃごちゃ考えたくないタイプである。
フィルム時代からネガ派だったので、撮影時に厳密な露光や色温度を要求されるポジ的な jpeg 撮影は性に合わないのだ。なので仕事でも自分の写真でもいつも RAW 撮影。
そのかわり、あとから RAW 現像には時間をかけている。フィルムの場合も暗室作業が好きなので、デジタルで撮っても「現像」は好きなのだ。
<今さらの用語解説>
RAW はセンサーのとらえた光の情報が未加工のままの「生データ」。
普通の画像に落とし込むためには「RAW 現像」と呼ばれる作業が必要。
この現像処理時に露光量・色温度・コントラスト等の調整ができる。
jpeg は、カメラが内部で自動で「現像」を行い、画像容量も圧縮してくれるモード。
ただしカメラが一度「現像」したデータなので、あとから調整できる振り幅が少ない。
今回面白いと思ったのは、コンパクトデジカメでモノクロモードにしていると、背面モニターの画がすでにモノクロになっているということ。
何を当たり前なことをと笑われそうだが、これは僕のようにフィルム時代からモノクロを使ってきた古い人間には驚くべきことなのだ。
フィルムカメラの場合はもちろん、中にカラーフィルム詰めていようがモノクロフィルムを詰めていようが、ファインダーで見る景色は普通に色がついている。モノクロ撮影の場合は、カラーで見える眼前の景色を色を抜いた想像の上で撮るのだ。
うまく想像力が働く場合もあるし、外れてしまうこともある。なんだ、モノクロになったら案外面白くなかったな、みたいなこともありうる。
そんな想像力に頼らずに、ファインダーでモノクロの画を確認しながら撮るコンパクト・デジカメのモノクロ写真。
便利ではある、が、これはいいことなんだろうか。
モノクロのファインダーを覗きながら撮ると、やはり、まず「今の目の前の光景はモノクロで絵になるか、ならないか」を先に確認してシャッターボタンを押す、ということになってしまう。
さっき書いたみたいに「結果的に」モノクロだといまいちつまらなかったな、ということはあるけれど、結果的につまらなかったことと、モノクロに合わないから最初からシャッターボタンを押さない、ということは別である。
「合わないと思ってたけど、案外良かった」の芽を自分で摘んでしまうことになるからだ。
写真の醍醐味の一つは「自分の目論見を何かが少し裏切ってくれること」にある。
その場の瞬時の自分の美意識ほど信用ならないものはないのだ。100%意図通りにならないところに、自分の狭小な美意識を壊してくれる何かが入り込み、その積み重ねが自分の枠を少しづつ拡げてくれる。写真を続けるというのはそういうことである。
今回 jpeg モノクロで撮っていて、一番気になったのはそれだった。
写真の神様の依代を、結局削ることになりそうな気がする。
そういう意味では僕はけっこう「信心深い」のだ。
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< 写真修行僧1月号より >
最後の写真は、側溝に落ちていた蝉の羽根。夏から数か月、朽ちもせず残っていた。すごい耐久力だ。
余談だが家の近所の警察署の有刺鉄線に、2年ほど引っかかっていた蝉の抜け殻があった。豪雨にも暴風にも耐えて朽ちもせず、素材的にすごいものだなと感心した。東レや帝人みたいな素材開発会社は蝉を人工養殖して抜け殻で新しい繊維を作ればいいのに(羽化まで7年かかるけど)。
余談終わり。
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写真の歴史として、まずモノクロームしかなかった時代があり、その後カラー写真が実用化した後も表現としてのモノクロームは併走した。
「技術的にカラーを表現できなかったからモノクロ」だった時代を抜け「カラーでも撮れるけどあえてモノクロ」という時代になり、そして今はデジタル化して「わざわざ色情報を抜いてまで」のモノクロである。
フィルムや印画紙の選択肢激減と値段の高騰でデジタルモノクロームは増えるだろう。
カラー写真に比べて保存性が良いとか、バライタ印画紙でのプリントの工芸品的な美とか(両方、美術品として扱われるためには大事な要件だった)、そういう優位点のなくなったこれからの時代のモノクロームについて考えてみなければならない。
支持体の質感を含めた品質の画一化(顔料プリンターや写真の用紙のバリエーションの少なさ)、暗室でのプリント作業という「体」の関与(「手仕事」感 )の消滅、というようなことを越えて、それでもモノクロームで写真を作る意味とは何だろう。
まずは「モノクローム」という言葉についた手垢から剝がさないといけないと思う。
銀塩の代替品としてのデジタルモノクロというのではつまらないし、それだけで銀塩感材の長い歴史に立ち向かえるのかというと、やはりそれは簡単ではない。
過去の技術へのオマージュとして、という以外の、新しい価値を作ることがこれからできるかどうかである。
しかし逆に言えば、額装されたバライタ紙のファインプリントという形でしか評価されないモノクロ写真というのもある意味イビツに感じるのだ。そういうところに押し込められたものだけが価値を持つというのは逆に不自由なことではないだろうか。
そう考えたらモノクロームは「暗室でのバライタプリント」という縛りから一度離れたほうがいいのだろう。
僕が今の職場(営業写真館)に入ったころ、もう28年くらい前の話ではあるが、暗室担当のベテランの人が、新しく発売されたブローニーフィルムの現像上がりを透かし見て「薄ぅなったなぁ」と呆れたように言う。ベースの話かと思ったら、フィルム上の銀の量だという。
そんな、使われている銀の量がフィルムを透かし見てわかるのか、とびっくりしたが、「一目でわかるやんか。こんな薄いの」・・・いやいや、僕新人なのでわからないっす。
営業写真館なので、古い写真の修復なども請け負うのだが、たしかに古い時代の写真ほど、浮いた銀が虹色に滲むくらい潤沢に銀が使われていて、最近の印画紙とは比べ物にならない。環境への配慮で規制が入ったりもしたのだろう。時代が進むほど何でも品質が良くなると思いがちだが、感材に関しては昔の方が良かったりすることもあるのである。
なのでバライタプリントの工芸品的な美しさ、などと言っても、昔の人間からしたら「そんな印画紙で何言ってるんだよ」みたいな部分もあるに違いない。
そのときそのときに入手できる感材や機器に頼らねばならないのが写真というジャンルの弱味なのだ。
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ライカがモノクロ専用デジタルカメラを作ったり、シグマのFoveonセンサー搭載カメラが現像ソフトに独自のモノクロモードを搭載したり、デジタルが作る「代替ではない」モノクロームの土台も徐々に進んでいるように思える。
(蛇足を承知でいうならば、僕はフジフイルムのカメラのユーザーだが、あの「フィルムシミュレーション」というやつは嫌いである。理由は書くまでもないと思うが)
今後も無彩の諧調だけで表現する写真というのはなくなりはしないだろう。だからなおのこと、デジタルで作るモノクロームの、フィルム代替ではない表現を模索していかなければならない。
そもそも、色情報のない諧調だけに還元された画というのはよく考えれば不思議なものだ。肉眼では見ることができない特殊な世界の一様相である。
被写体の形状を光源からの光の反射量だけで捕捉するという、独特な画。
イルカや蝙蝠が反響定位で世界を捕捉するのを凄い能力のように感じるけれど、我々はそれを光でやってるだけだ、という当たり前のことを、モノクロームの写真を見ると思ったりする。
そもそも、目の前の世界には色彩があるのに、それを抜いても認識が成立するというのも不思議だ。人は物の形状を色彩と関係なく把握する。視覚からの認識プロセスにおいて、では色彩の役割とはいったい何なのだ? みたいな話にも発展しそうである。
こういう面白いモノクロームという様式を、銀塩感材の入手難という浮世な理由で消滅させるのも、ちょっとつまらないことのように思える。
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などと色々考えはするのだが、今回は別に普通な感じのモノクロ写真になってしまってますね(使ったのがコンパクトカメラだというだけの)。
ううむ。まだまだ修行の途上である。
* BEATS
**Dynagorn