たまに、好奇心が溢れ出すことがある。ゴシップを読み漁ったり、ニュースをただひたすら見たり、未解決事件だったり、殺人事件だったりについて調べて、気がつけば数時間が経過すぎているなんてこと。
そのときは、なにかがカーッと熱くなって、夢中になってしまうんだけれど、ふと冷静になったとき、なにやってるんだろ、自分って、ものすごく気分が落ちこむ。興奮していた分、落ち込み具合も激しくて、大概は自分がやっていたことにがっかりしてしまう。もうこういうのはやめようと思っていても、気づけばまたやっていたりする。それでまた落ち込む。こういうことを、何度も繰り返してきた。
最近、津村記久子さんの『浮遊霊ブラジル』を通勤電車の中で読んでいて、どきりとすることがあった。「地獄」という短編の主人公は、死後「物語消費しすぎ地獄」に落ちてしまう。生前、ありとあらゆる物語を嗜みすぎたから、この地獄が彼女にあてがわれたらしい。
地獄での生活は、わりと淡々と過ぎていくんだけれど、この地獄では、主人公が生前に楽しんでいたり、消費してきた様々な物語を追体験することになる。例えば、ケネディを惨殺した人間になったり、その次の瞬間には殺される側になっていたり。かと思えば、2006年のワールドカップ決勝で、ジダンが某選手に頭突きをしてしまったシーンを体験したり。
たしかに、ジダンの頭突きは、センセーショナルだったし、今考えても、なんでやったし?!って思ったりもする。わたしもテレビであのシーンを観ながら、頭に無数のはてなマークと、妙な居心地の悪さを感じたものだった。いたたまれなさというか、なんというか。やってしまった感とでも言えばいいのか…主人公がジダンになったとき、さすがにその経験が堪えたのか、他人の修羅場を消費しすぎたことを深く反省していたのだけれど、これにはわたしもぐうの音も出なくなった。身に覚えがありすぎた。
スポーツにしろ、ニュースにしろ、事件にしろ、ゴシップにしろ、それは自分以外の誰かの身におきたこと。わたしたちはそれを物語として消費してしまうことがある。もちろん、冷静に考えれば、それを経験した人の思いなどは慮ることもできるのに、そういう機能がうまく作動しないときがある。とくに、先がわからない事件だとか、まさかの展開になってしまうようなものの前で、人の好奇心と、続きを知りたくなってしまう性、野次馬精神のせいで、他者の苦しみや痛みを、もぐもぐと消費してしまう…
わたしがとくに反省したのは、2015年に関西で起きた中学生殺害事件が起きたときのこと。ニュース番組で事件のことを知ってから、どうなったんだって、ちょくちょくネットニュースやなんかで調べて、進展がないかを追っていた。もちろん、子どもたちが早く見つかってほしいという思いはあったし、祈りもあった。だけど、それ以上に、この事件がとうなるのか、結末を知りたがりすぎていたのだと思う。本当に浅ましいことだし、いま思い出しても、なにしてたんだろう、って恥ずかしくなる。
さらに恐ろしいのは、わたしと同じように事件のことを調べて、必死に情報共有している無数の人々がいたということ。物語として事件を消費し、結末を知りたがりすぎていたのはわたし一人だけじゃなくて、無数にいたということ。そういう無数の知りたいとう欲望が、ニュースのあり方や、マスコミを動かす原動力になっていたわけで。わたしたちの無数の目、無数の耳、無数の口は、ときに報道のあり方も変えてしまうし、わたしたち自身も、知りたいという欲望に押し流されてしまう。
事件だけじゃなくて、ありとあらゆる物語が、常に消費されているいま、この時代。いつ、自分が消費される側にまわってもおかしくない。もしそのようなことが起きたら、わたしは果たして、それをどう受け入れるんだろう。そんなことを考えると、情報で溢れる時代に生きることが、とても怖くなる。わたしたちは、どこまで行ってしまうんだろう。このままいけば、ほぼ間違いなく「物語消費しすぎ地獄」にわたしも落ちていくだろうし、これを読んでいる人の中にも、同じ地獄に落ちる人がいるだろう。
ごめんなさい、ごめんなさいと、消費してから反省するのでは遅すぎるんじゃないか。自分の浅ましさを自覚しながら、主人公の謝罪の念に、何度も自分の言葉を重ねた。