2015年7月
夕方、いわき平のデニーズ。
黒づくめのスーツにサイドを刈り込んだ髪型、茶色の先がとがった革靴の男性4名が喫煙テーブルの奥に陣取り、ひとりが携帯で電話の向こうのだれかに大声で話す。男性の声はいやでも私の耳に入り、「金貸してるのはこっちです」「30万て金額じゃない」「もう4年経って厳しいも何もないでしょう」と途切れに聞こえて、混んでいる時間帯なのに彼らのテーブルの周りにはだれも座らず、半端なホストのような見た目と聞こえる内容であたりは静まり返っている。私はコカコーラのおかわりをしにドリンクバーに立つ。家族連れの脇を通るとき、6歳くらいの男の子と目が合った。電話の向こうの誰かに家族はいるのだろうかと思う。
2012年12月、いわき勿来のはずれ。
仕事をやめた私は、知人が衆院選選挙に出馬すると聞き、気軽な気持ちで知人が経営する蕎麦屋兼選挙事務所に陣中見舞いに行った。
その人は、東日本大震災でおきた原発事故のために楢葉町から勿来に避難し、楢葉で計画していた蕎麦屋を開店した。お金もないのに選挙を戦おうとしていたことに驚き、次の日が公示日だというのに選挙ポスターの写真撮影に今から行くんだと聞いて驚き、突然振ってきた状況に順応できず、ちんまりと正座したまま鳴り続ける固定電話に出ようとしない蕎麦屋のスタッフのおばちゃんを「まず電話に出てみましょう、蕎麦の発注かもしれないし」と励ました。
成り行きでその日から2週間、私は選挙事務所に篭城することになる。はじめの4日はほぼ徹夜で、5日めにして布団を見た時に、嬉しくて大笑いした。
出馬したその人は、ビールケースをお立ち台に演説をし、いつも笑っていて、いつもひとりだ。
2011年3月
東日本大震災がおきた2日後、スタンドに並んでガソリンを入れて、海の町に向かった。海に近づくごとに土と潮、油のにおいが混じり、乾燥していてほこりっぽいにおいがする。海っぺりの少しだけ高台にある旅館の先から県道15号線は消えていた。白い大きな一軒家がななめになって県道をふさぎ、密集してあった家々、古くて温かみのある海あいの町並みはすべてなくなっていた。
歩く人はまばらで、自衛隊員が瓦礫をかいて、道をつくっている。
ふとわき目に見た旅館は瓦が落ち、駐車場にはさまざまな生活のかけらが散乱していたが津波の浸水は見た目には見られず、ああ、この旅館は残ったんだ、まわりがこんなことになってしまって、再建はできるのだろうかと思う。
遺体捜索をする人たちをみかけ、起きている現実に怖くなって、私はその場所から逃げるように自宅に帰った。
私の家は山手にあり、地震で家の瓦が落ちることもなく、電気もついて、断水は2週間強で復旧した。炊飯器で炊いたご飯で玉子かけご飯を食べることができたし、2週間ぶりに入ったお風呂は体全部が湯に溶けてなくなる感覚がした。
お風呂に入れない間、一度まちがえてギャッツビーで下半身を拭いてしまい、大変なことになったこともあった。
ネットで原発事故の状況を検索しては頭が混乱し、読んだままの情報を家族に与え、振り回したりもした。自宅から福島第一原発は36キロの距離にあり、外はやけに静かで携帯電話だけがにぎやかだった。当時付き合っていた人には避難してくださいと言われ、避難をしないことにした私は彼に遺書を書いた。
なにもかもがわからなかった。
そんな状況の中でも海の町では淡々と瓦礫の撤去が行われていたし、旅館は楢葉町から避難していた町民を受け入れ2次避難所として機能していた。
2013年8月 いわき江名
仕事先で一緒だった江名在住のIさんは、海から程近いものの自宅は高台にあり、津波の被害を免れた。
とぼけた性格の彼はアウトドアが趣味で、川釣り海釣り大好きだ。暇があれば山か海のどちらかにこもる。
「地震のあとってどうしてたの」
「俺よ、暇だったから、江名中が避難所になってたっぺ、飯の炊き出しすっぺと思って米と飯盒もって江名中行って、校庭で火炊いたんだよ。したっけ、職員出てきて、火事になったら危ねえからやめてくれって怒られたんだ」
「そらたき火なんて勝手にやったら怒られるよ、してどうしたの?」
「家さ帰って炊飯器で米炊いてもってった」
「電気通ってたの?はじめからそうすればよかったんじゃない、飯盒やりたかっただけでしょ」
「んだよ」
2015年1月
古くなつかしい海の町。
日本でも有数のサーフスポットとしても知られるその海岸は、夏になれば県内外問わず観光客や地元の海水浴客で賑わい、海の家や民宿が並んでいた。特産品のかまぼこは生産量・味とともに確かな信頼を全国に築いていた。
ウニ・アワビ漁もさかんで地元で「くぐり」と呼ばれる専門の漁師が新鮮な海の幸を地元の生産者に届け、ほっきの貝がらにみちみちにウニを詰め蒸したウニの貝焼きはいわきが誇る名産品である。
その海の町は、目立つ観光場ではないものの、そのままの自然や町の人と直接ふれあうことができ、だれもが町並みに溶け込んで、まるでずっとそこに住んでいたかのような懐かしく穏やかな気持ちになるささやかないわきの名所だ。
塩屋崎灯台には今日も観光バスが停まり団体の観光客は美空ひばりの歌う歌碑「みだれ髪」をバックに記念写真を撮り、塩屋崎灯台に登る。湯本のスパリゾートハワイアンズには週末だろうが平日だろうが大変な盛況を見せる。
海っぺりのはじっこ。
切りだった岬と山のあいだに挟まったその町は現在、見渡すかぎり防潮堤と防災緑地の建設で土ぼこりと重機が舞う茶色の砂漠だ。
正直に言えば、私はいわきの表立った観光シーンに興味がない。この土地は観光というよりも「帰ってきたと思う場所」だと思うのだ。私の中で存在のあり方がまずちがう。
復興のなにか、発信することや意見がどうしても書けない。
目の前の海は毎日表情がちがい、凪の日もあれば時化の日もある。旅館の目の前のお山は高台移転のための土地計画で丸刈りになり、向こうのてっぺんにある老人ホームからはお山が削れて海が一望できるようになった。
平成26年12月、津波で流出した地元の商店や食堂4店舗が集まり、海沿いの町にプレハブの復興商店街ができた。
2014年10月 いわき夏井川渓谷
紅葉が谷の奇岩を縁取るうつくしい季節。
それぞれのハイキングスタイルをした人々が、カメラを手に真っ赤な赤やオレンジ色の谷を愛でる。
駐車場では地元の人がテントを張り、出店を出している。
もつ煮すいとん、牛くし、団子、やきそば。出店の奥にはこたつとカセットテープのカラオケが野ざらしで置かれていて、これは使えるんですか、と聞いたら「寒かったっぺ、あがって休んでって」と返ってきた。
背戸峨廊の遊歩道は震災で遊歩道が大幅に崩れ、4時間かかるコースの大半に入渓できない。
夏から背戸峨廊に急に入れ込んだ私は、休みになれば谷に行き「トッカケの滝」で水浴びをしていた。濃い緑や、自分がアリのように思える深いゴルジュ、いくつもある無名滝からきらきら飛ぶ水しぶき。大きな岩に寝転んで、空を見上げる。
市によると、2014年現在で谷の遊歩道の復旧は難しく未定。野生のまま人間がすこしだけ手を入れた遊歩道はもしかしたら、あと何年かで本物の野生の谷になるのだろうか。
谷を降り国道から崖を見下ろすと、ペットボトルやコンビニの袋に入ったゴミが散乱していて、古いゴミをなにかの木の根っこが覆っていた。その脇を、ほっかむりをしたおばあさんが手押し車で野菜を畑から運んでいる。長靴は泥だらけ。
生活の営みのかけらを見て、感じるものは多い。
それぞれがあの震災から生活を取り戻し、また取り戻そうともがき、ある人は絶望し、ある人はじっと待ち続け、ある人は許し、ある人はそのままで、ある人は再生する。津波の被害にあった海沿いの復興の歩みは牛歩だし、原発事故の影はいつまでも足元から消えない。
それでも海の町のひとすみで、谷の駐車場で、崖のゴミに張る根っこのように鈍く光るものはたしかにある。
2015年2月 時計を見たら14:46だった。
灯台ふもとの港に住む野良猫に餌をあげて海を眺めていたら、くぐりのMさんが港におりてきた。船をつなぐ広場ができたから、見に来たという。
Mさんが使っていた船は津波で流出し、現在ウニ・アワビ漁は試験の段階だ。Mさんはくぐりの再開に向け準備をしながら、私の仕事先の手伝いをたまにしている。
「船はできたの?」
「できてるよ」
「船がはじまったらさ、乗せてね」
「おう、乗せてやる。俺らの船は小さくねえから、ぎゅーんと走るぞ」
「うん、たのしみにしている」
野良猫の瞳の色が海の色なんだとMさんに報告し、また明日ねと別れた。
海の中のMさんは、誰よりも息が長く、追いつけないくぐりをするのだという。
2016年9月 小名浜
小名浜で行われる芸術祭を記事にするため現場にいた私は、そう言えば江名のIさんから来たメールを返信していないとふと思い出した。
ショートメッセージで「どうしてる?」と打ち、すぐにIさんから着信があったが電話口から聞こえたのは彼の奥さんの声だった。
「あら!久しぶりですね、Iさんにメール返してなかったからメールしたの」
「うん、見たよ。旦那死んじゃったの」と奥さんは言った。
奥さんの実家がある釜石に家族で里帰りをし、朝になったら冷たくなっていた、と。
思わず大きな声が出た。
いつ、と聞くと9月19日だという。Iさんが私に送ってきた最後のメールは空メールで、19日の20:36に送られてきていた。58歳だった。
動揺しIさんのことで頭がいっぱいになり、その夜小名浜の彼らと何を話したのか、実のところ覚えていない。
1996年、いわきで映画「釣りバカ日誌」のロケがあった。暇さえあれば釣りに向かうIさんは、もちろんエキストラ応募のオーディションに向かったが、本人は西田敏行にそっくりで「出演者と見た目がかぶる」という理由でエキストラオーディションに落ちた。出たかったなあと真顔で話していた。
わたしが、湯船に浸かりたい、湯本の銭湯に行きたいけど今日300円しか持ってないから行けない、と話したときは「湯本の駅前に足湯あっぺ、あれに入ったらいいべよ。わがんねがったーって言えば大丈夫だっぺ」と、どこも大丈夫じゃないアドバイスをくれたこともあった。その日の夜、そんなことを思い出した。
2016年11月
愛媛県八幡浜市真穴地区。真穴みかんというブランドみかんが盛んな地区。
みかんの農繁期だからバイトしに来ない?とみかん農家の方から誘いをもらい、それまで旅をするように地元を歩いていた私は、自分でも驚くほどすんなりと愛媛県に渡ることを決めた。
いわゆる「季節の仕事」だ。バックパックひとつだけ背負い四国でひと冬を過ごすことになる。
そういえば、高松の男木島も同じ四国だからいけるじゃないか。
いわきから約1100キロ離れた真穴地区で暮らした2か月はすべてがはじめての経験で、撮った写真は400枚を超えた。
そのお話はまた来月。
(おことわり)
上記の原稿は各章の日付に沿って書かれたものです。
2017年1月現在とは様子が違うこともありますので、みなさんいわきに遊びにきて実際の目で見てみてください。