まっすぐに、やりたいことに向き合っている人々は美しい。たとえ、泥だらけであっても、汗だくであっても、全身から滲み出る美しさがある。そんな人々の仕事に触れると、不思議と自分まで背筋が伸びる気がする。ありがたいとさえ思う。
先日、徳島を拠点として活動しているBuaisouのトークイベントに足を運んだ。ひょんな偶然から彼らのことを知ったその翌日に、家の近所のPaddlers Coffeeさんでイベントをやっていることを知って、出かけて行った。
Buaisouは渡邉健太さん、楮覚郎さん、結城研さん、三浦佑也さんの4人(+α)で活動していて、藍染藍の栽培から、染料作り、染め、製品作りまでを一貫して行っている。みんな爪が藍染の染料で青く染まっていて、ものすごくかっこよくて、芯が通った人々だ。
正直なところ、藍染のイメージを聞かれたら、染色液から引き上げた布を水で洗って干している程度のイメージしか持っていなくて、それ以外の藍染の過程って、普通に生活していたらなかなか触れることができないものだと思う。それに、あの深い青色が植物作られているということに、今更ながらに「マジか」と思ったし、それを知っている人はどれくらいいるんだろうとも思う。
もともと、藍の栽培や、染料の製造、染め、製品作りなどは、それぞれ分業するのが当たり前だったという。だけど、Buaisouの人々は、自分たちで一貫して行うというスタイルで、業界の常識破りなだけじゃなく、世界にもこんなことをやっている人々はいないのだそうだ。なんでそんなことをやるのかというと、やっぱりそこには伝統を絶やさないという思いや、昔から続く手法の持続性などに彼らが価値を見出しているからだと私は思う。
なにごとも、もともとは土から生まれてくる。私たちが口にするもの、身に付けるものは大元を辿れば土から生まれたものだ。植物の葉や実を食べ、糸や布を作り、消費してきた。それは分かつことができない流れ。分業しないで自分たちで全部作るというのは、そういう流れを自分たちの技術や知識として体得し、次に語り継いでいくことなんだと思う。そして、消費者としてわたしたちは、彼らの言葉や行動から古くて新しい伝統を学んでいくことになる。
彼らが話していたことで特に印象に残ったのは、藍染それぞれの工程の大変さ。染料の元となる蒅(すくも)作りには、藍の栽培から、蒅になるまで半年近く時間を要するということ。生産者も少ないから便利なツールも少なくて、既存の農具などを工夫しながら使って、全部手作業でやっていること。それでも、生産できる蒅の量はやっぱり限られていて、”食べていく”ためには、製品がいかにうまく販売できるかが肝になるということ。好きなことを突き詰めることのリスクや、覚悟、厳しさを彼らの言葉からひしひし感じた。
だけど、そういうリアルな側面を知ることで、より一層彼らが今やろうとしていることの価値について考えざるをえなかった。大変だけれど、やりたいからやる。ある理想があって、そこに立ち向かっていくことの大変さ、大切がある。藍染の過程を知ることで、彼らのやっていることの価値というのを理解できるし、彼らが作っているものの価値をより深く理解できる。ものの価値を知るということは、それがどのように作られて、どのような思いがそこに含まれていて、どのように私の手元まで届いているのかを知ることなのだろう。
日々の仕事に追われて、興味があることや好きなこと、もっともっとやりたいと思っていることがおざなりになっている中で、Buaisouの製品や本人たちと出会ったことは、きっと今の自分にとっては必然的で、今必要としているものだったのだと思う。明日の仕事や、将来のことを考えると逃げ出したくなることがあるけれど、彼らの姿を見ていて、漠然とこうなったらええなと考えてるだけではあかんのやなって。趣味ではあっても、毛糸を扱ったり、布を扱ったりものづくりをしている身として、彼らの言葉や生き様は、刺激になったし、中途半端な気持ちでやりたいことをただ漠然と考えたり、夢を語ったりするよりも、動かなければなにも始まらないんだよって、自分に言い聞かせた。
そんな彼らの思いを、家に連れて帰ってきた。奮発して買ったトートバック。この先も大事に、大事に使います。