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3F/長期滞在者&more

じゆねならん

長期滞在者

コトバ先行型の「自由」って、そのコトバ自体が枷になって自分を雁字搦めにしちゃうね。
自由が、自由が、と言ったり歌ったりしてる人の大半は本当は自由の意味があまりわかってない気がする。
何かにとらわれなくなっていく、ていうのは、時間をかけて、でも着実に一枚一枚脱いでいくもんだと思う。自分の中の不自由を凝視しなきゃ始まらないのに、そこをサボる。
先日、あまりに希薄な「自由」を連呼する人の話を聞かされて思ったことです、はい。

自由に答えはないし、自由という決まった形もない。
時間をかけて脱ぐ、とはいうものの、本当の自由というのは不意を突くように、突然眼前に現れる。言ってしまえば(僕にとって)自由とは「とらわれてない」ことなのだが、だからと言って意図して自分を「とらわれてない」状態にもっていこうとするのは、それはそれで枷になる。「とらわれてない」状態は突然出現し、多くは名乗りもせず消えていく。普段から自分の内にある不自由を考えていないと、人は多分、突然現れては消えた「自由」にも気づかないだろう。

さて、関係あるようなないような、もしかしたら関係ないかもの話を。

自由という歌詞がある歌で一番好きなのは沖縄民謡の『白雲節』で、これは嘉手刈林昌の歌うバージョンがもう最高なのです。youtube等ですぐ見つかるからぜひ聴いてみて。
でもこれは歌詞に自由とあるから自由なのではなく(むしろ歌詞で歌われる「自由」は「あの白雲みたいに〜」的なありきたりな感じの自由である)、嘉手刈林昌の歌が自由なのであり、自由というのはとてつもないものだなぁと、彼の歌を聴いて思うのです。
自由というのは人の気づかぬ不自由をすっと抜けたところに現れる。
そしてそれは常に心地よいものとも限らない。
人はなぜに自由でなく不自由の中に安住しているのか。それは不自由というものが決して不快なばかりではないからだ。
嘉手刈林昌の歌は、初手は決して心地よいものではないかもしれない。僕も昔は沖縄民謡二大レジェンドの嘉手刈林昌と登川誠仁ならば、超絶三線速弾きの登川誠仁の方が明快で好きで、嘉手刈林昌はよくわかわん、と思ってました。
よくわからなかったのは何故か。
自由とはよくわからんものだからだ、と、最近ようやく思うのです。

この嘉手苅林昌が「じゆねならん、じゆねならん」(自由にならない)と歌うのです。
あなたでもですか! と言いたくなります。

余談ついでの余談ですが、嘉手刈林昌と登川誠仁、この島唄界の二大巨人、1997年の大阪ドームでの琉球フェスティバルに二人が並んで登場したときには観客総立ち絶叫、僕もその場にいたのですが、何故か号泣する人まであちこちにいて、なんか歴史的瞬間にどうやら立ち会ってるらしい、と興奮した覚えがあります。若いころは共演もあったのですが、歳を経てからは二人が同じステージに立つことはなかったらしいのです。
二人が一緒に演奏して歌っている会場で、わざわざ沖縄の親戚に携帯電話をかけて「今、凄いもの見てる!」と報告している人がいました。電話する暇あったら真剣に聞けよ、とちょっと思いましたが(自由だな)。

繰り返しますが、世界は不自由なのがデフォルトなので、自由というのは、その裂け目のようなものです。
島唄の話ついでに言うならば、三線速弾きの登川誠仁の方、伝説のように「彼の三線は速すぎて、かえって音が止まって聞こえる」とまで言われてました。何を言っとるのか、と思いましたが、彼の『多幸山』の録音を聴くと、本当に空気が切り裂かれて一瞬世界が真空になったかのように聞こえる。切れ味が鋭すぎるのです。とてつもない三線です。
しかしこれを「音が止まって聞こえる」と表現した人も見事ですね。鎌鼬のような真空の裂け目。嘉手刈林昌は歌で、登川誠仁は三線で世界を裂いてみせる。

なんか自由の話をするつもりでほとんど沖縄民謡の話になってしまってますが。申し訳ない。好きなのでつい。
そして話の流れでなぜか「不自由が当たり前」「自由自由と簡単に言いすぎ」とか某保守系政党信者みたいなこと書いちゃってますが、誤読なきように。僕はバリバリの左派です。改憲反対。そして戦争反対! 
まぁ、それはさておき。

写真の世界にしても、世界に溢れる写真はまったくもって不自由だらけだし、もちろん僕も不自由なものばかり撮ってしまってるわけで、何も偉そうに言える立場ではないのです。
しかし写真を撮る者、に限らず、絵を描く人でも、音楽を作る人でも、何かを作る人。不自由に安住せず、その裂け目を追求する義務があります。あると思います、じゃなくて、あるんです。
だってそういうものなんだもの。

裂け目を見たくないか?

撮影 : 2012年3〜4月
カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

「自由とは何かを考えるのなら、まず不自由とは何かを熟考しなければならない。」と、本文のなかでカマウチさんは書かれていた。

自分にとっての自由 というものを改めて考えたことがあるかと聞かれたら、自分はなくはないと思う。
不自由については、様々なことが不自由だと思うが、熟考したかといえばそうでもない。
わりと不自由がベーシックのような気がしているので、どこにでもあるありふれたものという認識でいる。
とはいえ、自分なんかはかなり自由に暮らしている分類ではあるが。
それも自覚した上で、不自由がベーシックだからこそ、わりと色んなものを諦めて自由を手にしようとしてきたのかもしれない。

そんな自分ではあるが、自由だな、と思えた瞬間の多くは、棲家を遠く離れられるという条件下にあることを実感できた時。

新幹線に乗った時とか、飛行機に乗った時には簡単に「自由だーーー!」とか思ってしまう。単純。

しがらみに囚われて身動きが取れなくなることが多い中、えいやっと荷物をまとめて数日間でも飛び出していける その背景にあるものをすべてひっくるめて、自由だと思う。

どこにだって行ける、どこだって住める、とまでは言わないけれど、結構行く気になれば行けるもんだね、というあたりが程よい落とし所。

ミャンマーの山奥でひとり、その辺に腰かけてみた夕陽も、気持ちが落ち込んで仕方なかった時にでもなんとか乗った新幹線も、慣れない現地のオンラインマップで調べた店にたどり着いて食べたご当地グルメも、自分の能力で辿り着くのかわからないまま乗って向かったベトナムの山奥に向かう夜行列車も、どれも自由を感じられるものだった。

わたしは移動をすると、幸せを感じる。
何故だかわからないのだけど。
わたしを泣かせるものから物理的に距離を取れるだけで強くなれる気がする。
それが別に気のせいでもいい。
休憩したい時に休憩したいのだ。

どうにもできない問題というものは、それ自体をどうにかすることはできない。その代わりに、自分との距離感を変えたり、少しの間忘れてみたり、そういうことで折り合いをつけるしかないのに、それすらも難しい時にもっともっと辛くなる。
忘れたいことを思い出すきっかけも、少ない方がいい。

ちょっともう自暴自棄になりかけて、まあ、いいんだよ、と、危ないことも昔より厭わなくなってしまっている気もする。
こんな筈じゃなかったなぁ、と、思うところも残ってはいるが、ヘヘッと笑って過ごすしかない表の顔というものを貼り付けて生きている社会人なので、少しの冒険くらいは自己責任でやっていかなきゃ、生き抜いていけるという自信なんかも廃れていってしまうのよ。おわかり?

自分を挑戦できる環境に放り込む自由 みたいな、そういうものもたいせつで。
日常を離れるということは、それだけで挑戦だから。お手軽に見えても。

体調崩しがちな本年、何食べようかな?と、選択肢があることも自由だと思うし(今まさに大絶賛食中毒の後夜祭)先の予定を決めてしまうことができるのも自由と思う(体調不良を恐れて予約とか若干し難い)

ほら、わりと、自由って身近にたくさんあるんだもの。

纏まりませんが、わたしも最後に言うならば。けれども今書いたこんな自由なんて、そもそもが平和あってこそなのです。言わずもがな。

各々健康第一、世界平和を願い、憲法改正には大反対です。
自分たち世代も、甥っ子世代も、みんな戦争を体験しないまま棺桶に入る気しかないからな!!!!!という気持ちでいる最近です。

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