冷たくて、静かな雨が降る朝だった。職場に向かう道すがら、紫色のジャケットをきたおばあちゃんを見かけた。おばあちゃんたちが着る紫色は、なんでああも懐かしい気持ちにさせるんだろう。あの薄紫色がなんという名前なのか知らないけれど、おばあちゃんたちは必ず一着はあの色の服を持っているような気がする。
そのおばあちゃんは、小さな歩幅でゆっくり歩いていて、細い歩道では、追い抜かすタイミングを見計らうのも難しい。ふと、おばあちゃんがさしている傘に目を向けると、少しくすんだ藤色の傘だった。あ、傘も紫色だと思った瞬間、白い花がたくさん咲いているのに気づいた。傘は木蓮の柄、マグノリアの柄。そうか、もうそんな季節だったっけ。そういえば、少し前に、パートナーから家の近所に咲いていた木蓮の写真が送られてきていた。そろそろお目にかかりたいと思っていたところだった。季節感を意識してるの粋やなって、そう思いながらおばあちゃんの傘を眺めた。
実を言うと、春の花なら桜より木蓮のほうが好きだ。花びらが大きくて、春の青い空とよく似合う。ピンクや紫がかった色もあるけれど、とくに好きなのは白い木蓮で、街中で見かけるたびに一瞬動きが止まってしまう。でも、1番好きなのは、多分、マグノリアという名前の音感。いまでこそ、マグノリアが木蓮を指していることを知っているけど、子どものころは、マグノリアという名前が、木蓮のことだとは知らなかった。
マグノリアという言葉に出会ったのは、ポール・トーマス・アンダーソンの映画『マグノリア』がきっかけだ。中学生のころくらいだと思うけれど、テレビでこの映画のCMが流れていて、映像の綺麗さと、マグノリアという音感に心惹かれたんだった。同時は映画を観ることはなかったし、それが花の名前だとはよくわかっていなかったんだけれど、マグノリアという音はずっと頭のどこかにとどまっていた。
子どもの頃から、わたしは木蓮が好きだった。自分が好きな花がマグノリアという名前なのだと認識したとき、あ、そうか、そうなんだなって、心底納得した記憶がある。映画のCMでも、白い花が舞っていたっけって。ミステリアスなCMの印象は、ガラリと爽やかな春の花の印象に書き換えられ、それから木蓮の木を目にするたびに、心の中で小さく、マグノリアの木だ、と言いかえるようになった。いまでもそう。毎回同じことを繰り返している。
会社まであと少しの距離なのに、ゆっくりと歩くおばあちゃんを追い抜くことはできなくて、大通りまでマグノリアの傘を眺めながら歩いた。誰もおばあちゃんの傘には気をとめていないことが不思議に思われたけれど、オフィス街には木蓮の木なんてどこにも生えていないし、仕事に向かう人々にとっては取るに足りないことだから、きっと他人の傘の柄なんて気にもしないだろう。わたしだってたまたま気づいただけで、もし別の花だったら、さっさとおばあちゃんを追い抜いていたかもしれない。そんなことを考えていたら、なんだか無性に寂しくなった。
あのおばあちゃんが向かう先には、傘の柄について話し合えるような人が待っているといい。季節感を持ち物や装いで表現するのは素敵なことだし、きっとおばあちゃんだって気づいて欲しいんじゃないかって思うから。横断歩道を渡り終えたとき、さっと振り返ってみたけれど、おばあちゃんはもうだいぶ遠ざかっていた。会社のビルの前で、おばあちゃんに声をかけなかったことを心底後悔した。そして、はやくマグノリアが咲いているのを見に行きたいと思った。