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3F/長期滞在者&more

原点回帰

長期滞在者

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ここ最近、iPhoneで電子書籍を読んでいる。今読んでいるのは、Joshua Fields Millburnの『Everything That Remains』。著者のJoshuaがミニマリストになるまでと、なってからのことを書き綴ったエッセイなのだけれど、この本を通勤電車の中で少しずつ読み進めるのが、ここ最近の楽しみになっている。JoshuaはRyanという友人とふたりで”the minimalists“というブログを続けていていて、このトピックに関して数冊の本を発表している。わたしが彼らのことを知ったのも、彼らが続けているpodcastがきっかけだった。

 おそらく、わたしがミニマリズムに初めて触れたのは、ブラジルで生活していたときのことだ。当時は、それが今でいうところの「ミニマリズム」だとは思ってもいなかったけれど、振り返ってみると、エッセンスとしてはミニマリストそのものだったと思う。

 真っ白な壁の部屋に、ベッドと勉強机、壁に備え付けのウォークインクローゼット。持ち物はそれくらいで、クローゼットの中には、本や服など、自分の所有物が綺麗に収まっていた。限りなく少ない持ち物で生活していた時代。物が少ないと、必然的に部屋は片付くし、掃除は自然と行き届く。何もない部屋に、ぽつんと座っていることがただただ心地が良くて、家にいるときが一番心が安らいだ。不思議だけれど、当時は何もない部屋から、木々のざわめきや、風のささやき、めまぐるしく色が変わる窓の外の景色を眺めているだけで、世界がどのようなものなのか、クリアな目線で見つめることができた。そして、当時はよく考えて、ものすごくたくさん書いていた。物を持たなくても、幸福は手に入れられる、そう実感したのも、そんな何もない部屋の中でのことだった。

 彼らのエッセイにたどり着いたのは、いわば原点回帰のようなものなのかもしれない。ここ最近、自分がなんだかとてもごちゃごちゃして、”all over the place”だと感じていて、なにかが変わらなければいけないと危機感を覚えていた。日本に舞い戻ってきて、もうすぐで11年。その間も、土台としてのミニマリスト的価値観はあったけれど、その上に取捨選択しきれないまま、いろいろペンキを塗りたくってしまったような心持ちでいる。自分にとって、もっとも大切なものが曇って見えなくなっているような、そんな感じ。

 あと、たとえ自分にとって価値があると思っているものでも、所有しすぎるとストレスになってしまうこともある。例えば、読まれないまま本棚の中に収まっている、積読の数々。カラフルで美しいけれど、どうやって使い切ったらいいのか途方に暮れている毛糸は、収納の場所を取り過ぎてしまっている。欲しい色が売り切れてばかりだったから、予約購入でまとめ買いした布。手に入れた途端、どの服から縫いたいのか、どこから手をつけていいのかわからなくなってしまって、配送のダンボールに入ったままになっている。共通点は、全部、目に触れるたびに罪悪感が胸を刺すという点。本は、読まれない限りただの紙切れだし、毛糸も布も、それをものづくりに使わない限り、ただの繊維にすぎない。ただ、所有するだけなら、tumblrやinstagramのハッシュタグ検索で、画像巡りをしたらいい。ハート印をつけたり、reblogしてお気に入りの画像コレクションを作れば、それだけで満足するかもしれない。にもかかわらず、私は自分の人生に価値を与えるものとして、それらの物を購入してきたわけだ。そして今、それらのものに、心乱されているわけで。

 正直、今の家はもっと綺麗に整理することができると思うし、もっと物を少なくすることができると思う。自分に価値をあたえてくれる物であったとしても、取捨選択して、ストレスにならないようにすることができるはずだし。ただ単に、断捨離するだけじゃなくて、なんでそれが今の自分にとって足かせになっているのか、何が自分にとって重荷になっているのか、自分は何に疲れていて、何を避けたいのか。ミニマリストになるということは、自分の生活の中のありとあらゆる物事に対し、いちいち疑問を投げかけていくことだ。疑問を投げかけるのはとても面倒だけれど、避けて通ることはできない。たとえ、通り過ぎようとしたり、見えないふりをしていたとしても、心の中では自分が一番そのことをわかっているから、どうやって目をそらそうとしても見えてしまう。

 本を読んでいて、何度も心の底から納得する場面に遭遇したけれど、正直一番印象に残ったのは、”Am I adding value?” という考え方について。Joshuaは出世まっしぐらな仕事を投げ出して、執筆という長年のミッションに突き進んでいくわけだけれど、彼が書くときに意識していたのは、その文章がバイラルになることではなくて、自分が書いたものによって、読み手の人生に付加価値をつけることができてるのか?ということ。読み手の存在を意識しつつ、自分の言葉によって、いかに良い影響を与え、その人々の価値観に新たな風を吹き込めるのか。

 わたしも、書くということに、特別な意味があると信じている人間だ。だけど、この十数年で、自分が書いたものが他者の価値観に付加価値を与えられるとは考えていなかったし、ましてや、よりよく生きるために役立ててもらえたらなんて、恐れ多くて考えようとすらしていなかった。たった一人でも、共感してくれる人がいたらいいなとは思っていたけれど、実のところ、自分が書いているものに対して、こんな文章が人に響くわけがないと思い込んでいたし、自分自身が、自分の書いているものに価値を見出していなかった。そんなものが、誰かの心に刺さるわけもないし、良い影響を与えるわけがない。私はそうやって、書くという行為ときちんと向き合わないまま、ただただ書いて、ささ舟のようにネットの海に流してた。自分の姿勢は、あまりにも内向的で非生産的で、そのことに気づいたときしばらく放心状態になってしまった。(もちろん、生産的であることだけが大事というわけではないけどね・・・)

 さっき書いたことの繰り返しになるけれど、読まれない本はただの紙切れだし、読まれない文章は、波にさらわれる小さなささ舟。すぐに消えてしまう海の藻屑になってしまう。
 だけど、多分私の考え方や、ライフレッスンの中には、顔も知らない他者にとって、有効活用できるアイディアはあるんじゃないかって最近考えている。普段意識しないで話している言葉の中や、立ち居振る舞いから伝えられること、そういう些細なことが他者の人生に付加価値を与えることができるかもしれない。そう思うと、書くことに対して、別の姿勢で向き合える気がしている。書き続けることに対する心の整理ができたこと、所有するものに対して、今後どうしていこうか考える余地が生まれたこと、all over the placeになっている自分の現状に気づけたこと、そこから一歩前進しようとしていること。いろんなことが、プラスの方面に動いてる気がする。

 自問自答して、日々の暮らしをブラッシュアップしていくことで、自ずと大事なものが見えてくるはず。この本を読んで、原点回帰しつつ、新たな気づきを得られたからとても嬉しい。あと数十ページで読み終わってしまうのが惜しい気もするけれど、その都度読み返しては自分の立ち位置を振り返るために、役立てたい。

Maysa Tomikawa

Maysa Tomikawa

1986年ブラジル サンパウロ出身、東京在住。ブラジルと日本を行き来しながら生きる根無し草です。定住をこころから望む反面、実際には点々と拠点をかえています。一カ所に留まっていられないのかもしれません。

水を大量に飲んでしまう病気を患ってから、日々のwell-beingについて、考え続けています。

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