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3F/長期滞在者&more

裏でも表でもないこと

長期滞在者

pq11

個人的には、今年は何事に対してもmais ou menosな年だった。転職やら引越しやらでバタバタしたけれど、荷物も少なかったし、なんやかんや平和に過ぎて、振り返ってみたら大したことではなかったような気がする。大きなピークもなければ、谷もないような。

でも、社会の動きはそうでもない。大波小波の差はあれど、社会は大きく乱れた。それに、たくさんの偉人たちが亡くなった。一年の終わり、反省モードになる中で、これは今年中に書いておきたいと思ったことがある。

アパートメント上で往復書簡をしているのだけれど、そのタイトルにもなっている”mais ou menos”という言葉は、わたしたちの生き方をよく表している言葉やと思う。

Mais ou menosは、日本語に訳すと「まあまあ」や、「良くも悪くもなく」という感じの意味合いになる。ぼちぼちと訳しても良いかもしれない。

手をパーにして、地面に対して水平にして、シーソーみたいに左右に倒すようにひらひらさせる。これは、この言葉を表現するためのジェスチャー。言葉自体の意味はあまり良いとは言い切れないかもしれない。だけれど、わたしはこの言葉とジェスチャーがとても好きだ。このジェスチャーは、わたしと、わたしのパートナー自身を象徴しているような気がするから。

このジェスチャーって、裏でも表でもないことや、白でも黒でもないことを表しているわけだけれど、わたしたちは2人とも「どちらでもない」を実践している。わたしは、日本人でもブラジル人でもない生き方、パートナーは女性でも男性でもない生き方。ふたつや、それ以上のものの間でたゆたって、あえて定めず、定まらずに日々生きている。

生きていると、”こうでないと負け組”的な価値観に晒されてしまうことが多いし、そういう風にしないといけないような風潮はあるんだけれど、わたしはmais ou menos な人生でも良いじゃないかと思っている。そう思い始めたのは、こういう裏でも表でもないわたしたちが手を取りあって、生きるようになってからのことだ。

二十代前半のころ、死を覚悟したことがあった。一人暮らしの寒い部屋で、どうやって首をくくろうか。そんなことがわたし思考の大半を占めていて、つらい日々だった。パートナーと出会ったのは、ちょうど生きるか死ぬかの間で、ゆらゆら揺れていたときのことだ。幸いにも、その危機をなんとかやり過ごすことができて、今もこうやって生きながらえている。自分が生きていることと死んでいることは、紙一重であっても、全く別物なんだとあのときはっきりと感じたことが、その後の自分の死生観を変えたんだと思う。だから、23歳以降の自分の人生は、長いおまけみたいなもんだと思っている。一度終わって、始まり直したものというか。

こうでなくてはいけないという鎧兜を少しずつ脱いで、mais ou menosでも生きていることに意味があると思う。良いときと悪いときの差が激しくて、どちらかに著しく傾いても、裏表がひっくりかえらなければ、なんとかやっていける。物事は、そうはっきりと白黒つけられるわけでもなく、白に傾いたり黒に傾いたりと、グレー濃淡は絶えず移り変わる。きっとそういうものだ。今よりも若かったころには、真面目だったのか、どちらでもないことが苦しかったけれど、そもそも白黒ははっきりつかないものだと思うようになった。

これで良いのだ、はバカボンのパパの名言だけれど、わたしもそれで良いのだと思う。もちろん、このままではよくないことも、この世の中にはたくさんあって、それを無視することはちっとも良くないんだけれど、自分を縛るような社会の風潮や、こうであれというスタンダードや、人と違うことや、我慢していること、四苦八苦していること、自分と社会の間にあるギャップ、そういった様々な自分を縛るものを、ぽいっちょしたり、箱にしまっててみたり、断捨離したり、バットでスコーンとホームランを打ってしまってもいい。お好きにーサーカス。

あとね、人に甘えてもいい。人に優しく、自分にも、自然にも、みんなに優しくなったらいい。弱さを悪いものとして端に追いやらなくてもいい。誰にとっても多かれ少なかれ生きづらさがあるんだから、自分たちをさらに追い詰めなくていい。まあまあとか、白黒つかないとか、良くも悪くもないmais ou menos。だけど、この言葉は多分そんなにネガティヴじゃなくて、自分自身をembraceするためのおまじないのように思っている。

Maysa Tomikawa

Maysa Tomikawa

1986年ブラジル サンパウロ出身、東京在住。ブラジルと日本を行き来しながら生きる根無し草です。定住をこころから望む反面、実際には点々と拠点をかえています。一カ所に留まっていられないのかもしれません。

水を大量に飲んでしまう病気を患ってから、日々のwell-beingについて、考え続けています。

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