カラスが好きなので、カラスに関する著作の多い動物学者・松原始の本をよく読む。まずは年末読んでいた彼の本の中で見つけた「いい話」から紹介しよう。
といってもカラスの話ではなく、ミツユビナマケモノの話なのである。ちなみに僕はナマケモノも大好きだ。神戸どうぶつ王国(旧花鳥園)という動物園があって、そこでは(ミツユビではないが)フタユビナマケモノを、かなり間近で見られる。勇気を出せば鼻先数センチにでも寄れるだろう。彼にとってはストレスであろうからまぁ50cmくらいの距離で我慢しているのだが、50cmでまじまじ観察しても、噂の通り本当に動かない。
可愛い、というのでもない、不思議な面相の(神々しくも見え、魔物的でもある)まったく動かない動物。引力あります。惹きこまれてしまう。もういつまででも見ていられる。ぜひ神戸どうぶつ王国で見てほしい。せわしなく動かざるを得ない自分がなんだかゲスな生物に思えてきますよ。
松原始の本によると、それでもフタユビナマケモノの方はまだ動きが活発な方らしく、ミツユビの方になると週に一回程度糞をしに地上へ降りてくる以外は樹上でほぼ動かず、自分の背に生えた苔などを食っているのだという。もう神仙の領域である。
樹上で自分の背中に生えた苔を食って生きれるのなら、何もわざわざ木から降りて身を危険に晒しながら糞をしなくとも、樹上から投下すればよいではないか、と思うのだが、ウィスコンシン大学ジョナサン・パウリの研究によると(あ、ここからがいい話なので聞き洩らさないでね。いい話、行きますよ、さん、はい)わざわざ外敵に身を晒す危険を冒してまで地上で排泄するのは、ナマケモノの糞中で育つナマケモノガという蛾がおり、その蛾と相利共生の関係だからなのだという。糞中で育ったナマケモノガは成虫になるとナマケモノの背にとりつき、毛の中で暮らす。ナマケモノは蛾をお迎えに降りるのだろう。蛾は当然ナマケモノの背で糞もする。その糞が養分となって背に苔が生える。その苔をナマケモノは食べ、おそらく蛾も摂取するのであろう。
どうです、いい話でしょう? 蛾からすれば、自分の糞を肥料に苔を育てていて、もうこれは農耕と呼んでもよいのではないか。そして育てる場所がナマケモノの背。その背の持ち主ナマケモノと農耕者の蛾が一緒に苔を食う。どんだけファンタジーやねん。いい話だなぁ。じんじん。
という話を人にしたら、「へぇ、面白いね」とさほど面白くもなさそうに聞くので、僕の語り方が悪いのか、「いい話」具合が伝わらないのはなぜか、などと悩んだが、いやそうじゃなくて、この話は別に万人が感動する種類のものではない、というだけのことなのだった。たまに僕はこういうことをやらかす。世の中動物好きの人ばかりじゃないのにね。
ではこの話を面白がり、「いい話」だと思った自分がいて、では「いい話」とは何なのだ、ということを考えてみたのである。
面白い話、ではあるだろう。面白い話、興味深い話、というのなら「まぁたしかに」と賛同してくれる人は増えると思う。でも僕はこの話を読んで「いい話」だなぁと感嘆したのだ。じゃ「いい話」って何だろう。
ナマケモノと蛾がお互いの役に立っているから? 共生システムとしてシンプルに完結しているから? 動かないナマケモノが危険を冒してまで樹下に降りるところ? 蛾からみれば農耕者的、ナマケモノからみれば仙人的、という擬人化された「物語」になっているから? サステナブル?
よくわからないけれど、そういったもろもろが綺麗にスパッと組み合わさっているからであろう。そのスパッと具合、話のキレ味のようなものに、思わず「いい話だなぁ」と感じたわけで、べつに善悪の話でもなく道徳の話でもないのだった。
こんな話があちこちに転がっていたら、わざわざこの話を「いい話だなぁ」と感嘆することもないわけだが、普通は世界は複雑と混沌に満ちていて、こんなにキレ味良くは出来てはいないのである。このナマケモノと蛾の話だって、もっと深掘りしていけばスパッとはいかない部分も見えてくるのかもしれないけれど、ぱっと見には見事な円環を描いて完結しているように思える。世界は複雑。でもごくたまに美しい円を描く。いい話だよね?(そうでもない?)
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次はびっくりした話である。もっと人に伝わらないかもしれない話なので先に謝っておく。ごめんなさい。もう読まなくてもいいかも(笑)。嘘、読んでみて。
年始セールのブックオフの中古CD棚に、ひょこっと置かれていたカール・リヒターのバッハ「ゴルトベルク変奏曲」。
カール・リヒターというのは今みたいにバッハ演奏が古楽器演奏主流になる前に「バッハ演奏の王道」みたいにいわれていた人(鍵盤奏者で指揮者)。僕はグスタフ・レオンハルト等の古楽器派が好きなのでリヒターにはあまり興味が持てず、CDも何枚かしか持っていなかった。
なので普通なら興味も惹かないのだが、帯の煽り文句が、なんかリヒターらしからぬ、とか、鬼気迫る、とか、やたら気になるのである。
500円で買えるので試しに買ってみた。これが凄いCDであった。
1979年、リヒター晩年(死ぬ2年前)の来日公演のライブで、チェンバロを弾いているのだが、これがもう、びっくりするような演奏なのだ。
バッハ演奏の王道と呼ばれた、中庸で端正なバッハを演奏してきたはずの人が、冒頭のアリアからすでにフラフラし千鳥足のようなテンポどり。変奏に入るやミスタッチを連発し、弾き損じて戻ってやり直すこと数度、やたらガチャついて弾いたり、レジスターを過剰に駆使しておどろおどろしい響きを作ったり、もう無茶苦茶なのである。
死ぬ2年前の演奏というから老体に鞭打ってぜえはぁ言いながら弾いているのだろうか。リヒターがいくつで亡くなったのか知らないから、聴きながらスマホでwikipediaを調べてみたら、なんと55歳没とある。若いやん! 老骨じゃない! このとき53歳!
だとしたら何なのだこの演奏は。まさか酔ってるのか?
最初はミスタッチやつっかえて戻って弾きなおし、みたいなのに気をとられて「はぁ??」と思っていたのだが、しばし聴き続けるうち、いつしか胸打たれ、じわじわ興奮しながら耳を離せなくなっていた。
「ゴルトベルク変奏曲」というのは前後に同じアリアを挟んで、そのアリアのベース音から作られた30の変奏曲が続く、長大な鍵盤曲である。ピアノ演奏ではグレン・グールドが1981年に録音したレコードが名高いし、僕も大好きだ。
リヒターが今鬼神に憑かれたようにチェンバロの鍵盤を叩きながら弾いているこの曲は同じゴルトベルク変奏曲なのだろうか。弾いているのは本当にカール・リヒターなのだろうか。
あまりの圧力に耐えられなくなり、真ん中の第15変奏が終わったところでいったん聴くのをやめた。1日で聴き通すにはこちらの覚悟が足りなかった。翌日後半を聴き、そのまま冒頭に戻ってもう一度全曲を一気に聴いた。演奏時間1時間19分、本当に何かに憑かれて弾き通したような、狂気すら感じる演奏だった。
1979年来日当時、確かに体調は悪そうだったらしい。そもそも来日じたいが体調面で危ぶまれていたとか。
そして帰る飛行機のタラップで「日本が嫌いになった」とつぶやいて去ったという噂もある。何か体調のほかにも意に染まぬことがあってヤケクソで弾いて帰ったのかもしれない。それにしても、仮にヤケクソであったとしてもだ、これはある意味、世紀の怪演になってしまった。こんな不穏なバッハ、聴いたことがない。
第1変奏で弾き損じてしまった時点で、リヒターの中の何かがブチ切れてしまったのかもしれない。どうせやらかしたんだから、あとは好き勝手に弾かせてもらう、みたいな。今まで「中庸」の仮面に押し込めてきた「裏」リヒターが走り出した。
はじめこそ気になってミスタッチや弾き損じばかり耳についたけれど、何度か聴くと、そんなことより全体を覆う禍々(まがまが)しさのようなものの方が気になってくるのだ。
それにしても、よくもまぁこの録音の公開をリヒターも許したものである。当時FMで流れたらしいが、リヒター好きたちはどんな顔してこれを聴いたのか。リヒター自身、今までの自己像的なものを打ち壊したいような発作に襲われたのか。そしてそれに後悔していないのかどうか・・・?
ゴルトベルク変奏曲というのはバッハの鍵盤曲の中でも長大な難曲で、古今さまざまな名盤・珍盤があるのだけれど、名盤の極みと称賛される(僕もそう思う)グレン・グールドの1981年盤のあまりの完成度に反発した(?)高橋悠治が、わざとテンポ感やタッチのコントロールを崩した不思議な演奏を録音したことがあった(2004年盤)。たしかに変な演奏なのだが、彼の録音はいまそこで音楽が生まれる瞬間のたどたどしさを敢えて再現するような不思議な魔力があった。
高橋悠治が音楽の生まれる瞬間を記録にとどめたとするならば、このリヒターの録音は、まさに音楽が崩壊する寸前の瞬間の炎のような、やはり魔力のある音楽なのだった。
第15変奏から第16変奏に渡る魔的な響き、最後2つの変奏で叩きつける指先から咆哮の聞こえるような、怒りにも似た打鍵。
どうしたリヒター。凄いぞリヒター。そしてなんかしらんが、感謝の意も伝えたい。ありがとうリヒター。凄いものを聴いたよ。聴いてはいけないような・・・でもびりびりしたぁ!