名刺交換が苦手だ。
恥ずかしいことに、社会人になってから数年が経つけど、いまだに名刺交換のとき、そわそわと落ち着かない。卑屈な自分が顔を出しちゃって、「どうせ捨てられる名刺だ」「印刷工場に申し訳ない」などと考えてしまうメンタリティを持っているからだ。
もっと言えば、「初対面だから、とりあえず渡しておく」みたいな儀式としての名刺交換って意味あるのかな? と思っている自分がいて、それってエコじゃないもんな、とちょっとだけ地球のことも脳内によぎったりする。
仕事でもプライベートでも、「今後、何かあるかも」という人は、偉そうなことを言うようようだけど、名刺交換せずとも、初対面で言葉を交わしたときの感触や出で立ちからなんとなくわかるもの。
今の、この時代だ。気になれば、名刺がなくとも、どうにか名前さえ聞き出せれば、インターネットで検索しちゃえて、相手のことはわかるわけで、連絡もわりと取れちゃうし。
何が言いたいかっていうと、「肩書」という”鎧”の部分で会話していてもあまり面白みがない、それが本音。「人柄」を追い抜いて、身に纏っただけのものが先に出ちゃうのはちょっと寂しいよなぁ、といつも感じるわけで。
そもそもの話になるけど、名刺交換への違和感を持つようになったのは、20歳のとき。10コ上の大学の先輩にあるバーに連れてもらったのが、きっかけだった。
そのお店は、新宿3丁目、末広亭からほど徒歩3分圏内のカジュアルなバーで、元々ビジュアル系バンドでギターを弾いていた人が店主をしていた。2丁目が近くにあるせいか、集まっていた人たちも含め、かなり俗っぽいお店だった。
店内は、主にカウンター席となっていて、客は横並びにギュッと詰めて座る。その距離感たるや。20〜30cmほどで隣合うせいか、会話に巻き込みやすく・巻き込まれやすくで、グラス片手に、たくさんの大人たちとごく自然なかたちで話をする。
年齢や職業、趣味嗜好も異なる人が、肩を並べて、カウンターの向こうにいる店主を間に挟みながら、たのしげな話から、しみったれた話までが広がっていく。
ざっくりとした表現になるけど、このバーは、いい大人、かっこいい大人が多かったと思う。とにかく一緒にいてたのしい人ばかりだった。だけど、普段どんなことをしている人なのか、ましてや名前すらわからないままに、店をあとにすることばかりで。
話が記憶として残り、”〇〇な話をしていた人”という情報だけなのに、なぜかその人に惹かれているのがわかった。
「バーは、平等なのかもな」
そう、20歳ながらに思った。名刺に書いてあるような情報なんて一切お構いなしで、その人がどんな人(キャラ)なのかだけで、心地よい時間が過ぎていく。この空間で、そんな無理くりに”鎧”をまとったような話するのは野暮でしかない。
きっと、お店の外では、みんな違った立場で、違った表情を持っているはずだけど、この場所だと、名刺など目もくれずに、目の前にいる人をちゃんと見て、話にちゃんと耳を傾ける。人間味があっていいな、とぼくは感じた。
これが人と人のコミュニケーションなのかも、と。
バーテンダーはお酒を混ぜるだけじゃなくて、こういう立場を超えて、人と人を混ぜ合わせる仕事なんだ、と思ったものだ。お酒が好きというよりは、お酒のある(もちろん、飲めなくてもいい)空間が好きで好きでたまらなかったぼくは、いつの間にか、ぼくはバーカウンターのなかへ入っていくことになった。
……という原体験があって、やはり、名刺という武装状態から入るやり取りがなんとも苦手なわけで。
名前から生まれる会話でなく、まず会話があって、「えっと、何さんでしたっけ?」と、最後に名前が生まれるくらいがちょうどいい。
「名前はまだ無い。」からはじまり、相手に魅力を感じてもらえて初めて、名前が意味を持つ。
名刺だけ渡して、当たり障りのない会話をするだけなら、引き出しの奥のほうにストックされるだけ、場合によっては、別れたあとにすぐにゴミ箱行きにされてしまう。残酷なもんだ。
少し人の言葉を借りてみると、“「」をはずす”ような関係性で会話ができるといい。あるいは、“文脈を生む”ような空気感がつくれたらいい。
そんな関係性・空気感づくりのためには、紙っ切れなんかじゃなくて、相手の”裸”の姿を知ろうとすること、その知るためのヒントを相手の立ち振舞や、言葉から探し出していくことが大切なんじゃないのかな。そっちのほうが、人間らしいって。
もはや、名前なんて無くたっていい。
名刺に触れるたび、いつも、バーで教えてもらったことを思い出している。