小説を読みながら、音楽を聞きながら、映画を見ながら、「まるで自分のための作品のようだ」と感じる瞬間がある。
特に孤独を感じているような時、そんな作品に出合うと、固く閉ざされていた扉が開いたような気持ちになる。見つけたのは自分なのに、世界のほうが見つけてくれたような気持ちになる。
スペインのブロガー、マイク・ライトウッドさんが書いた小説『ぼくを燃やす炎』は、多くのLGBTにとってそんな気持ちを与えてくれる作品だ。マイクは自分のブログに届いた多数の少年少女の声を集め、それらを編みながら一本の小説に結晶させた。
地方の村で暮らす16歳の少年・オスカルは、ある日を境に高校で自身のセクシャリティが知られ、毎日ひどいいじめを受けるようになる。彼は心の痛みを体の痛みにすり替えるため自傷行為をするようになり、いつのまにかそれがやめられなくなっていく。
よき理解者である友人や、いつも味方でいてくれる母親もいるけれど、終わることのない壮絶な日々はオスカルの心を疲弊させる。
そんな中、自分の身を守るために通い始めた街の柔道教室で、オスカルは自分に好意を寄せる男の子・セルヒオと出会い、距離を縮めていく。
マイク・ライトウッド、村岡直子訳『ぼくを燃やす炎』(サウザンブックス)
最近は少しずつ増えてきたけれど、主人公がLGBTの物語はまだ多くない。
自分が10代だった頃はよく、男女のラブストーリーを男同士に置き換えていたことを、読みながらふと思い出した。
といっても、それはまだ恋をしたことがない人が情熱的な主人公に自分を重ねてみるようなものでもある。恋に恋することは10代にとってよくあることで、一概にジェンダーの問題だけではないだろう。
だけど、現代に生きる男同士のラブストーリーにはじめて触れた時、これまでになくすんなりと受け入れられたことも事実だ。
それは安心すると同時に、壁があることを知った経験でもあった。主人公のセクシャリティが自分と同じかどうかで、こんなに感覚が違う。自分と同じものを見つけることは、そうでないものに気づくことでもある。
大人になるにつれて、その違いが理解のできなさに直結することは少なくなっていった。僕たちには想像力があるから、男女の物語を男同士に置き換えてみることも、そこから大切なことを学ぶこともできる。
だけど想像力で補う必要のない物語が、心を楽にするのも事実だ。特に、自分と「同じ」だと思えるものがなく、孤独を感じている若者にとっては。
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『ぼくを燃やす炎』は、そんな風に自分の性的指向に苦しんでいる人にとって、シェルターの役割を果たす小説だ。
あらすじを見れば、アウティングやいじめ、セクシャルマイノリティという言葉がハードな物語を連想させるが、実際に読んでみると、オスカルとセルヒオという二人の青年の瑞々しいラブストーリーが序盤から繰り広げられる。
メッセンジャーを使った二人のやりとりや、ブログやTwitterにその日のことを書き込むオスカルの日常がとてもリアルで、甘酸っぱい展開が胸をときめかせてくれる。もしも読みながらページをめくる手が止まらなくなるとすれば、それはきっと二人の恋の行方を知りたくなるからだろう。
この甘い恋こそが、この小説における一番の光だ。
現状を打破する勇気も大切だが、その勇気を振り絞るために必要なのは、明日に希望を見出すことだ。ゲイであることを強烈に否定され続ける立場にいるオスカルが、ゲイであることでセルヒオという素晴らしいパートナーを見つけ、自己肯定感を回復していく。その物語は、セクシャリティによる度重なる自己否定に疲弊し、弱った人たちの心に寄り添う。
オスカルがいじめられるに至った背景が「これまでのこと」と題して各章の合間に挿入され、本編とは分けられていることも、配慮されていると感じる。
希望のある現在と過去が並行して進むことで、たった今深刻な状況に置かれている子が、辛い気持ちに飲み込まれずに済む。それぞれ2,3ページほどの長さなので、気持ちが疲れてしまっていても読みやすい。胸が苦しくなる描写も多いが、この部分があるおかげでオスカルにより感情移入できる人もいるだろう。
オスカルのような立場に立たされている人に、現実にセルヒオのような人物が現れるとは限らない。優しい人たちの力を借りて、現状を打破できると言い切ることはできない。でも、打ちのめされた人に向かって放つ「現実は甘くない」なんて言葉に、何の意味があるだろう?
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オスカルがいじめに遭うのは、親友であり、初恋の相手でもあるダリオからのアウティング(自分の性的指向を、他者が勝手に言いふらしてしまうこと)がきっかけだった。
思い出すのは、2015年の8月に起こった一橋大学のアウティング事件だ。同級生に自身がゲイであることを口外された一橋大学の大学院生の男性は、その後大学側に相談しても適切な対応が得られず、校舎から転落死した。
2018年7月には、自民党・杉田水脈議員が『新潮45』に寄稿した「「LGBT」支援の度が過ぎる」というコラムの中の、「LGBTは生産性がない」という趣旨の発言が批判を浴びている。
杉田議員は子どもを産み育てられるかどうかを「生産性」という言葉で定義し、「子育て支援や不妊治療など、少子化対策のために税金を使うならともかく、LGBTカップルのように子どもを作らない”生産性”のない人たちのために税金を投入することはいかがなものか」と主張した。
ニューズウィーク日本版の大橋希記者による「LGBTへの日本の行政支援は「度が過ぎる」のか」という記事によれば、同性パートナーシップ制度を全国で先駆け導入した東京都渋谷区の男女平等・LGBT関連予算は全体の0.01%(予算総額938億円のうち1300万円)。これで「度が過ぎる」とは言い難い。
それに、子どもを産めるかどうかに限らず、あらゆる点において「生産性」で人の価値をはかり、支援をするかどうかを決定すること自体が差別を助長する。
LGBTや多様性に関する議論は近年増えていて、進歩していると感じることも多いけれど、こうしたできごとがあるたびにまだ考えが浸透しているわけではないのだと痛感する。
訳者の村岡直子さんのあとがきには、『ぼくを燃やす炎』が生まれた背景について、こんな説明がある。
“スペインは欧米のなかでもかなり早い時期に同性婚を認めた国であり、LGBTの問題に対してオープンだというイメージが強いため、ここで描かれたできごとは大げさだと思う人がいるかもしれません。(中略)だからといってすべての国民がこの問題に対して理解があるわけではありません。むしろ伝統が色濃く残る地方の町では、「男は男らしく」というマッチョな思想が今も幅を利かせています”
日本の状況もそう遠くないだろう。本当のところを言えば現実は過酷で、問題が山積みだ。
だけどそれでも、大人は子どもたちに、未来は明るいと伝えて、それが嘘にならないように努力することを諦めてはいけない。
いつも声を上げ続けることは大変だし、黙認してしまう日もあると思うけど、絶やしてはいけない。
自分自身が、その実践として、いまこの文章を書いている。
もう無理だと思ったら、『ぼくを燃やす炎』の500ページ近い物語に逃げ込めばいい。各章の頭にはポップソングの歌詞が引用されているから、YouTubeでその曲を聴いてみてもいい。
自分と同じだと思える主人公がいることは、この世界に存在していいと感じさせてくれる。
一人でも多くのサバイバーが、今日を生き抜く方法を見つけてほしい。本書を発刊したプライド叢書編集主幹の宇田川しいさんも、最後の「プライド叢書発刊に寄せて」の中でも触れている通り、皆そう強く願ってこの本に関わったはずだ。
内容が充実しているぶん、価格は学生が買うには少し高いので、学校の図書室や保健室、街の図書館にあるといいかもしれない。
届くべき人のもとへ届くことを願っている。