今年11月、東京からオランダはアムステルダムに移住をした。
計画を立てたのは今からちょうど1年前のこと。妻と2人で、リビングのテーブルで将来設計を話し合った。彼女はイギリスで幼少期を過ごし、オーストラリアの大学を出て、東京の大学院に入るために帰国してから早15年以上が経っていた。彼女の周りは多国籍であることはさることながら、誰も彼も1か所に定住することなく、一定の時間が経てば次の場所へと移り、新しい友人を作り、新しい文化に触れる——。そんな人々ばかりだ。妻もその例外ではなかった。
対する私は、東京に生まれ落ちて35年間、そのほかの都市に暮らした経験もなければ、20代中盤にニューヨークで3か月を過ごしたことを除けば、もちろん海外に本格的に住んだこともなかった。社会に出て、フォトグラファーのアシスタント、フリーマガジンのエディター、映像プロデューサー、アートプロデューサーと職を転々とする中で、どれも不思議と海外に接点のある仕事ばかりで、どうやらなにか惹かれるものが海の向こうにあるらしかった。10年前に今の妻と出会ってから、どこか別の国で暮らすことは2人の目標のひとつとして掲げてきたものの、しばらく会社員として務めてきただけあって、海外移住というのはハードルが高いものと考えられた。しかし2014年に独立をしたことがきっかけとなって、クライアントの大半が海外になってきた時点で、本格的な移住を考え始めていた。
それで妻と将来設計を話し合うことにしたのである。
これも良い機会だと思い、私はエクセルを開き、2017年から2052年までの年表を即席でザザッと書き下ろした。そして東京オリンピックの開催年にあたる2020年をひとつの基準にしながら、毎年どんなことを達成したいか、どこか別の国に移住をするとしたらいつ頃が良いかを話し合った。妻の意見としては、東京オリンピックまでにはどこかに移り住みたいというものだった。そこで私が、「じゃあその時に2人が何歳になるのかを割り出してみようか。俺は37歳、レナは38歳……」と計算したところ、「38!……それじゃ遅すぎる……!」と妻が反応した。
話し合いの結果、東京の住居の賃貸契約が切れる2018年の12月までには移住しようと決めた。移住先の絞り込みに関しては、私の仕事先は大半がヨーロッパの国々であることから、どうせ移住するなら自分の仕事を拡大できる場所に移りたいと提案したところ、候補にオランダが挙がった。
日本とオランダの間では1912年に日蘭条約が結ばれており、それは現在も有効だ。これによって、通商航海の自由と最恵国待遇が約束されている。2014年から2年間は労働ビザなしでもオランダで働くことが可能だったようだが、さすがに改正され、2017年1月からは就労のための労働許可を取得する必要はあるが、それでも日蘭条約による最恵国待遇はなお有効であり、個人事業主すなわちフリーランスは4500ユーロを自分自身の事業に投資さえできれば(つまり事業用口座に4500ユーロを維持できれば)、個人事業主ビザが取得できる。移住のためにビザ取得を検討した経験がある人であれば、これがいかに好条件であるかは想像にたやすいだろう。
前年の2017年は、海外への足がかりができた年だった。
その年の7月に南フランスはアルルで、私が作品管理に携わっている写真家、故・深瀬昌久の回顧展を開催したことがきっかけとなって、ヨーロッパで様々なプロジェクトが花開いた。そのひとつとして、美術館が回顧展の開催を考えたいという。その美術館とは、他でもない、オランダはアムステルダムにある写真美術館のFoamであった。なんでもアルルでの展覧会を関係者が見て、これはぜひ当館でも開催したいと興奮したという。そうと決まればどこへでも飛んでいくのが私の信条であるから、フライトを確保してすぐさまオランダに飛んだ。9月の話である。
その出張に妻を伴い、アムステルダムで1週間ほど過ごした。そのときに妻は、ヨーロッパで母国語を第一言語としながらも、第二言語である英語を、街の誰もが流ちょうに話せることにとても驚いたらしい。加えてオランダ人はとてもナイス(親切)で、接客対応はさることながら、笑顔が印象的だった。だから移住先としてオランダを選ぶことは、なんだか不思議と現実味が感じられた。Foamとの協議も順調に進み、2018年の9月から12月まで深瀬昌久の展覧会を開くことが決まった。もし移住が現実となれば、縁のようにも感じられる展開だ。
2017年夏のアルル回顧展開催は、Foam回顧展だけでなく、他にも様々なプロジェクトに発展した。京都で毎春開催される写真祭「Kyotographie」の主宰2人とも現地で話す機会を設け、2018年の春に「Kyotographie」で深瀬昌久回顧展が決定した。また、2人に「深瀬全集を作りたいと考えている」と話したところ、フランスのパブリッシャーを紹介したいと提案を受け、その翌日、Editions Xavier Barralの発行人であるXavierと話す場を設けた。Xavierは深瀬の「ベロベロ」というシリーズが気に入って、それを本にしたいと話してくれたが、私はとにかく全集が作りたいのだ、それがいま最も必要とされている1冊なのだと説得したところ、「じゃあその本を作ろう。何ページになってもいい。キミが作りたいと思う本の構成を教えてくれ」と言ってくれた。
かくして2018年のスケジュールが決まった。
1月から3月にかけて全集「Masahisa Fukase」の本文執筆と写真構成。同時進行で「Kyotographie」回顧展のキュレーションを進め、開催月の4月は東京と京都を行き来する。さらに同時進行でFoam展の開催準備を進め、9月にオランダ入りし、移住前の現地視察も兼ねてアムステルダムに1か月住む。そして11月にはオランダ移住——。アシスタントもヘルプもいないため、自分でやり遂げなければならなかった。しかも4月の京都展がきっかけとなって、移住直前(!)の11月に、東京は六本木の富士フイルム・スクウェアでの巡回展も決まった。京都展、foam展、東京展、全集「Masahisa Fukase」と、お披露目するたびに人前で話をする場を設けさせてもらった。
仕事はもちろんのこと、プライベートでも思い残すことがないようにこの1年を過ごそうと決めていた。私は趣味のひとつとして昆虫採集が好きなのだが、最終場所として毎年行きたいと願いつつも、忙しいの一言を言い訳にして訪れることのなかった沖縄に、7月某日に思いついた1週間後には訪れていた。そして写真家の石川竜一と出合い、2人で3日間を過ごした。その翌週には母方の故郷、福島県会津田島にいた。すっかり歩けなくなった祖母の見舞いと、祇園祭を見るためだ。母と兄の家族が合流したため、田島では甥2人と全力で遊んだ。東京に戻って寝込んだ。東京では祖父の墓参りをし、オランダに拠点を移すことを報告した。
8月には北海道にいた。とある理由で埋葬されることなく某所に保管されていた深瀬さんの遺骨が遺族に返還された。となれば故郷の大地に戻してあげるべきだと遺族と話し合い、深瀬さんの故郷、美深町を訪れた。その1週間には再び沖縄にいた。7月に共に過ごした石川竜一のことをもっと知りたいと思い、雑誌に企画提案をして出張費を確保して向かった。それから東京に戻って1週間後、Foam展の設営準備のためオランダにいた。
シンガポール、ソウル、京都、京都、ソウル、京都、ソウル、松山、沖縄、福島、香港、北海道、沖縄、アムステルダム、パリ、そしてオランダ移住。めまぐるしい1年だった。やりたいと思ってもなかなかできずにいたことを、この1年に詰め込んだ。暮れにはもう日本に住んでいないという想定が、背中を押してくれたのだと思う。
旅だけではなく、深瀬さんの本や回顧展を形にできたことは大きかった。これまで18年間、1人で悶々と考えきたことが本として、また展覧会としてまとまった。それまではいちから1人1人に口で説明しなければならなかったことが、日本語だけでなく様々な言語で、世界中の人々に知ってもらうためのベースを作ることができた。もう、日本に居続ける必要はない。
移住のために手放したものは少なくない。大切なものはストレージを借りて保管することにしたとは言え、持ち物の8割は処分したはずだ。オランダに持ってきたものは主に服と仕事道具で、本は30冊もない。まるで1度、自分が死んで、別な存在に生まれ変わったのではないかと信じ込むことすらできなくはないほど、自分と妻が存在すること以外のほぼ大半が、11月を境に変わった。
これからオランダを拠点にしながら、深瀬昌久の回顧展をヨーロッパ各国に巡回する。そして、ヨーロッパにおける様々なアーカイブ団体を訪れることから、日本ではまだまだ発展の余地がある物故作家のアーカイブについて調査をしていく。まだここでは書けないが、水面下で計画しているプロジェクトは沢山あって、それらは我が身をヨーロッパに置くことで確実なものとしていけるはずだ。
体力的に言えば、移住において35歳は決して若くない。しかしこの10年間で貯めてきた資金や知識、経験則は20代の頃とは比べものにならない。一般的に衰えると言われる筋肉に関しても、実は何歳になろうが鍛えることで蓄えられるものらしい。実際、阿佐ヶ谷で暮らしていた頃に通っていたジムでは、顔は70代なのに、身体は20代のような体つきをした老人がいたことからも、実際にそうなのだろう。家や車も含めて、物を持つことは負債であるから、なるべくそうしたものを抱えることなく、思い立った時にどこへでもいけるような身軽さをもって、オランダにやってきた。
独立した時に決めたルールのひとつは、今日想像もつかない場所を常に目指すこと。独立をした2014年から過ごしてきたこの4年間は、それまでの人生31年に匹敵するほど困難で、やり甲斐があり、充実し、前に進もうという気概を私に与えてくれた。明らかに、1年1年が、一年前には想像することもなかった仕事や場所、考え方を私に与えてくれた。それは散在や物を持つことでは得られることのない出来事だった。私自身が考え、行動し、そうして得るものは、確かに私の経験と言え、人生と言えるのだと知った。主体性を持って、自分自身を信じる。私が素直に良いと思ったこと、悪いと思ったことは、実際その通りであって、それは信じるに値する。
私が私を信じて共に行動できた時、私はほかの誰でもなく、たしかに私その人だ。