■最近の「写真」の拡張になかなかついていけない。何もファインアートの中での写真の立ち位置とか、境界の融解とか、そういう高次な話ではない。たとえば街中で小綺麗なお姉さんを呼び止めて「ストリートスナップいいですか」みたいなやつ。ストリートスナップというのは我々の年代では森山大道や中藤毅彦やブルース・ギルデンのような写真をそう呼ぶのだと信じていたが、小綺麗なお姉さんを望遠レンズで背景ぼかしてパシャ、素敵です、みたいなのをストリートスナップと呼ぶ世代にはブルース・ギルデンなど狂人にしか思えないだろう。F社のカメラの宣伝で人の鼻先にカメラを突き付けて他人の怪訝な表情やあらわになった不快感を撮りまくって非難囂々浴びた某写真家の例もあり、あの辻斬りスナップこそ写真の正義、みたいなのを今でも伝統芸能的(?)に信奉している人を、僕だってどうだかなぁとは思う。写真は単に度胸試しなのかね。しかし森山大道をはじめとする人々が切り開いて写真史に大きな痕跡を残した手法を、全く違うスタイルの「街角で小綺麗なお姉さん」写真が名前として塗りつぶしていくのは良いのか。森山大道に恨みでもあるのか。路上で写真撮ればストリートスナップだから別に僭称でも何でもないわけだが。もやもやはするなぁ。■写真はその時代時代のカメラ機材に依拠して変わっていく。それは当たり前だ。大御所の川田喜久治だって最新デジタル機器で尖りまくった写真を撮っている。デジタルカメラとフォトショップ、もしくはスマートフォンでさえ、できることはフィルム時代では考えられないくらいに拡張した。これまでフィルムカメラで不自由な感度と手数の少ない色彩コントロールに苦労してきた者にとっては夢のような環境だが、今はその時代を知らない層が、はじめから与えられた恩恵として今の撮影環境を享受している。スマートフォンで自在な画像が得られるようになって撮影者の数は飛躍的に拡張しただろう。カメラを所有して意識的に「表現」として写真を撮ってきた人の数と比べて、スマートフォンが育てた「表現」者の数は何千倍なのか何万倍なのか見当もつかない(何をもって「表現」とするかは色々ではあるにせよ)。世の中に写真が溢れすぎて、早い話が、僕らみたいな昔から写真を撮ってきた人間は、ありていに言えばスネているのである(笑)。何だよ、あとからうじゃうじゃ出てきやがってよ。小綺麗な写真撮って素敵とか言ってんじゃねぇよ。いやまぁこんなジジイの文句なんかはどうでもいいけれど。■こうして写真を撮る人口が爆発的に増え、僕ら古い世代の写真を撮る人間が信じてきた写真の歴史が、流れの真ん中だと信じていたものが、膨大な水量の中で実はほんの岸辺の渦巻きに過ぎなかったのかもしれない、ということは、衝撃的だが考えなければいけないだろう。淀川程度だと思っていた写真の河の両脇にガンジス川くらいの河床が用意されていたことに気づかず、急に広がった河幅に淀川の魚がスネているのである。■河は拡張したが、それでもその中で僕らが見たいのは、結局のところ写真が見せてくれる新しい景色である。景色と書くと誤解があるか(「風景写真」のことじゃないからね)。地平、という言葉も何だか好きではない。要するに見たこともない何かを見たいだけある。揺すぶられたいのだ。自分のちっぽけな美意識の檻を、揺さぶって壊してくれるものを待っているのである。どれだけ川幅が広がろうと、それを見せてくれる魚が級数的に増えるわけではない。いま一瞬雑魚という言葉が浮かんだが、気のせいだ忘れてくれ。そんなこと誰も言っとらん。■答えはシンプルだ。見たこともないものを見たい。広がった大河の中で、新しい魚たちと一緒に、それを探しに行くのだ。