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Mais ou Menos #10 —裏でも表でもないわたしたちの往復書簡ー

Mais ou Menos

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まちゃんへ

私は幽霊が好きです。
幽霊のただ怖いということや驚かすということが好きなのではなく、幽霊がその幽霊になり得たる理由や、そこに渦巻く物語が好きなのです。
だから、今日、京都の伊勢丹でやっていた“奇々怪々お化け浮世絵展”を見に行って本当に大満足でした。私は、昔から幽霊やお化けにとても興味があって、それが浮世絵になって表現されていることに興味津々で、この浮世絵展に足を運んだのですが、実際に見たその幽霊の絵たちは自分の想像をはるかに超えて、素晴らしいものでした。その絵それぞれに迫力があって、本当に今生での怨念や情念がその幽霊の絵からは感じられました。また、怖いんだけれどコミカルな部分もあったりと幽霊と一言でいってもこんなにも表情が豊かで、おもしろいものなんだと感動しました。
私は昔から、幽霊の話を聞くのが好きでした。よく父に『四谷怪談』や『播州皿屋敷』や『牡丹灯籠』など有名な怖い話をしてもらいました。父はもともと播州出身だったので、姫路城で父が子供の頃に見てきた実際の井戸の話なども交えて(今思えばうまく脚色して)語られる話が怖くて、震えながら聞いてたんですが、大好きでした。そういった昔の話は怖くて冷や汗をじっとりかくほどなんですが、この世に未練を持って亡くなった人の悲しさや辛さ悔しさなどの気持ちが“念”となって幽霊になるんだなと子供心に考えていました。
亡くなった人が幽霊になってしまうということは、そこに悲しみや恨みなどの負の感情があるからだと思うんですが、そういった話に私がどうしても惹かれてしまうのは、やはり、生きていくということは、そういった負の感情と戦っていくことだからかもしれません。幽霊は幽霊なんだけど、その存在はすごく人間ぽいと思う。怒りや悲しみの感情があってそこから動けなくなってしまうってすごく人間らしい。そういった亡くなった人間の感情を、残された生きている人たちが想像して幽霊を創り上げたんかなと思うと、幽霊のことをすごく人間らしいなあと思うのです。それと同時に、私たち生きている人間が幽霊の本当の感情はわからないのに、勝手に幽霊の感情を考えてかわいそうと思ったり、つらかったんやなと考えることが傲慢だなとも少し思う。同情されたくない幽霊もいるかもしれない。幽霊は、幽霊になることで逆に自由になるのかもしれない。
私は、この幽霊のことを考えているとなぜか涙が出てきます。生きている人間が亡くなった人のことを想像して創り上げた物語にすごく心を揺さぶられてしまう。そして、死という生に戻れない事象を前にすると、命の儚さにやりきれない気持ちが溢れてくる。
死んだら終わりやん。死んでもし、幽霊になって復讐したら幽霊は幸せなのかっていったら、幸せかわからない。その終わらない悲しみを考えると苦しくなるけど、どうか生きている人間も幽霊も心は自由であってほしいと願う。それができないから幽霊になるんかもしれんけど、そんな幽霊のことが私は好きです。

P

2015.08.08

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Pちゃん

浮世絵展、ほんとうに素敵だったね。駅でチラシを一目見たとき、「あ、これはいかねば!」って直感で思ったんだよね。でも、実際予想よりはるかに面白く、そして深く考える時間をもらえたので、刺激的な経験になりました。個人的には、月岡芳年という浮世絵師の名前を知り、作品に触れることができて嬉しかった。今度、月岡芳年の色使いを真似たブランケットを作ってみたいな、と密かに思っています。図録、売り切れていたのほんとうに残念だったね。またもう一回行きたいと思えるくらい良かった。つぎは、ルーブル見に行こうね。

思えば、わたしはいつから怪談が好きになったんだろう。子どものころは、怖い話も映画も、テレビも大の苦手だった。なのに、いつしか怪談は大好きになっていたし、怖い絵とかもわりと好きになった。(ホラー映画は今でも苦手。脳裏に映像が焼き付いて、離れないのが嫌だから。でも、テレビの心霊映像はちっとも怖くなくて、いつも萎える…)稲川淳二が大好き。お酒を飲みながら怪談は自分にとって最高の娯楽なんですけれど、これちょっと悪趣味かしらね。

ただ、見るとか、聞くって、受動的な行動に思えて、自分で情報を取捨選択しているからとても能動的な行為なんだと思います。浮世絵をみていて思ったのは、もちろん作品そのものの繊細さも素晴らしいのだけれど、そこから読み取る「物語」があるからこその面白さがあるということ。裏切られた恨みだとか、無念だとか。誰かに対する執念だったりね。絵そのものから、その物語が見えて、聞こえて、感じることができる。その点ではすごくPちゃんの言っていることがわかる気がします。わたしも、今回の浮世絵展、近年見てきたどんな恐怖映像なんかよりも興味深く見ることができたと思う。

でも、その一方で、怪談って残された人々の物語でもあるのかなって思ったな。亡くなった人に対する思いだったりが、幽霊というかたちで物語られる。物語ることで、その思いが成仏するというか。語ることで、裏切ったり、傷つけてた人への鎮魂だったり、贖罪をしたり……罪悪感が作り出した物語もきっとあったんじゃないかと。そんな気がしてなりません。

maysa
2015.08.09 ( Sun )

Maysa Tomikawa

Maysa Tomikawa

1986年ブラジル サンパウロ出身、東京在住。ブラジルと日本を行き来しながら生きる根無し草です。定住をこころから望む反面、実際には点々と拠点をかえています。一カ所に留まっていられないのかもしれません。

水を大量に飲んでしまう病気を患ってから、日々のwell-beingについて、考え続けています。

PQ

PQ

ゲームと映画が好きです。
国籍も性別もない。

Reviewed by
西尾 佳織

ひとの往復書簡にレビューを書くって一体どういうことなんだろう?
とレビュアーを引き受けてから、考え出した。

いつもそうだ。私は取り組むことで考える。先に考えはない。もし、「自分の考え」というものをもって「自分がある」と言えるのだとしたら、私には自分がない。先に、自分はない。関わる中で自分ができる。自分をつくる。やり取りをして、私とあなたの関係を築いていく中で、私が生まれてゆき、同時にあなたも生まれてゆき、「わたしたち」が生まれてゆく。

そういうことで言うと、この往復書簡をやり取りしているPちゃんとまちゃんは、もうだいぶ「わたしたち」だ。

彼女たちのやり取りの隣で、私はわりと大きな疎外感を感じていた。レビューの締切を過ぎて1ヶ月が経っても、言葉は宙でばらばらになったままで、それを掻き集めたいとも思わなかった。この往復書簡は「読者」を求めていないと思ったのだ。Pちゃんにとっては、まちゃん、まちゃんにとっては、Pちゃん、以外の読者を。

望まれておらず、そして自分でも必要を見つけられていない言葉を外に出すことは、苦しい。私がこの往復書簡にレビューを書くことは、Pちゃんとまちゃんという「わたしたち」に、不必要な橋を架けることなんではないかと感じている。
書けばこの世に生まれてしまう。そうしたら、Pちゃんとまちゃんの隣、というか背後?に、私といういらない気配が生じてしまうんじゃないかなぁ・・・と、悶々。

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