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Mais ou Menos #20—裏でも表でもないわたしたちの往復書簡ー

Mais ou Menos

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まちゃんへ

6月になり、梅雨入りで、じめじめした天気になってきました。

最近嬉しいことは、まちゃんといっしょにいる時間が増えたこと。
協力して二人で生活をつくっていること。

この二つです。

通勤で歩く道が同じ方向ということもあり、いっしょに行ったり、帰ったりできるのがすごく嬉しい。これは、今まで考えられなかったことで、私は、昔はずっと車通勤だったし、まちゃんはシフト制だったからまず時間が合うことがほぼなかった。それが、今、いっしょに歩いて帰っている。

歩く時間が今までよりも増えて、その間にいろいろ話したり、一人だったら音楽を聴きながら考え事をしたりするんやけど、この時間が結構好きです。歩くのが好きだったんだなと、歩いてみて思い出した。

協力して二人で生活をつくっているというのは、二人で家事を分担したり、買い物に行ったり、掃除したり、日常を協力して送っているということです。
気持ちよく生活するにはどうすればいいかということを最近考えるようになった。やはり、「物を持たない」「掃除をする」これだと思う。

もう少し生活が安定したら、もう少し行動範囲を広げてうろうろしよう。私たちは、たぶん、いろいろゆっくりだから、ゆっくり自分たちのペースで進んでいこう。それしかできないんやから。

2016.06.08

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今日もお仕事お疲れ様。

お便りを読んで、まず連想したのは、「掃除、挨拶、学問」という言葉。Pから聞いた校訓だけれど、今では自分の人生のありがたいお言葉みたいに思っています。まずなにより掃除。心穏やかであるためには、常に身のまわりを綺麗にするのが大切ですね。普段からモノを増やさないとか、掃除を心がけているけれど、自分の心の中の断捨離しなね。

朝晩のウォーキング、日々オフィスワークだからすごくリフレッシュになっています。歩くことも楽しみの一つになってきているよ。日焼け対策していかないとと内心思っていたり… 近々すてきな日傘をgetしたいです。

歩きながら考えるのは、仕事のこと、ブラジルの家族のこと、私たちの生活のこと。あと、自分の過去のこと。過去のことを考えること、すごく多いな。反省というか、整理というか…。考えすぎてもしゃあないんだけど、なんで自分はこうなんやろうって、自分の足跡をたどる感じ。同じことを何度も反芻しています。

わたしだけじゃないと思うんやけど、都会の真ん中にひとりでいると、自分の輪郭がはっきりするような、でもぼやけていくような、よくわからない不思議な気持ちになります。ほんと毎日そうなる。波のように押し寄せる人々や、巨人みたいなビル群の中で自分の存在がどんどん薄れていくのに、点としての意識はしっかりあって、すごくちぐはぐ。そんなことを毎日感じるからこそ、自分の内側にあるものをつかみたいのかな、と思ったり。あんまし上手に説明できないんだけれど…

あのね、わたしのおじいちゃんの体調が本当に悪いみたい。いつ悪いニュースがあってもいいように心の準備をしながら、祈りなさいって両親から連絡があった。今は隣町の病院に入院してて、うちの両親が付ききりなんやって。癌は腸から肝臓、腎臓にも転移していて、二日間一切排尿できていないって。おじいちゃんの体の中で、大変なことが起きているのに、わたしはなにしてんだろ。輪郭なんちゃらなんて言っている場合じゃないハズなのに…。自分の自己中心ぷりにげんなりするけれど、今はそれよりおじいちゃんの痛みがほんのすこしでも和らぐことを祈ります。どうかわたしと一緒におじいちゃんのために祈ってほしいです。わたしたちの声が、海を越えておじいちゃんに届くといい。

2016.06.08

Maysa

Maysa Tomikawa

Maysa Tomikawa

1986年ブラジル サンパウロ出身、東京在住。ブラジルと日本を行き来しながら生きる根無し草です。定住をこころから望む反面、実際には点々と拠点をかえています。一カ所に留まっていられないのかもしれません。

水を大量に飲んでしまう病気を患ってから、日々のwell-beingについて、考え続けています。

PQ

PQ

ゲームと映画が好きです。
国籍も性別もない。

Reviewed by
西尾 佳織

「歩くのが好きだったんだなと、歩いてみて思い出す」というPちゃんの言葉にグッとくる。
身体は頭より、色んなことを知っている。
普段の生活では深い部分に埋め込まれて見えなくなっていることも、本当は覚えています。
だから思い出すことが出来る。

でもじゃあなんで、身体の知と頭の知がずれるのか?
と考えるに、生きるために、身体が覚えていることを、頭が選択的に忘れておくことにしているケースがあるんじゃないか。

というのは例えば、
私事で恐縮ですが、わたくし今ドイツに来ておりまして、
ハノーファーの空港に降り立って数時間を過ごしたところでふと「あーーーーー。なんかすっごい楽!」と気が付きました。
思うにそれは、「イエーイ! 誰も私のことを見ていない!!!」という自由さでした。
私のこと、特に私の容姿・服装・体型などのことを、今この瞬間だれからもジャッジされてない!!!
というのは、何たる気楽さ、居心地の良さなんだろう……と知りました。

や、本当は、知っていました。
ジャッジされ続けることがいかにキュウクツか。
その感覚を、身体は知っていましたが、
窮屈でない状態が起こり得ない日々においては、
頭としては知らずにいたい、それが無理ならせめて忘れたフリを続けよう、ということだったのだと思います。

受信しつづける身体と、そのインプットを正しく流さないことを選びつづける脳みそ(でもそれも、身体の一部だ)は、
手を取り合って頑張っているんだと思いますが、しかしなかなか、苦しい戦いであります。
自分の中に、自己否定するプログラムを組み込んだ状態でworkし続けていくというのは。

存在するために一番ベターな方法が、できるだけ存在を消すようにして存在することである、
というようなことがたぶん起こっていて、
瞬間的にはそれがコストパフォーマンス的にベスト!
だったとしても、そのやり方してると身が削られて、いつか石鹸みたいになくなっちゃうんじゃないだろうか。

「歩くのが好きだったんだなと、歩いてみて思い出す」ような形で、
身体の知っていることが、表に出てこられるといいなと思う。

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