当番ノート 第51期
家から数メートル先に、町のたばこ屋があった。重い引き戸をガラガラと開けて「すみませーん」と声を大きめに張ると、まばらの大きさの丸い木がぶら下がっている玉暖簾をかき分けて、「はいはい」と面倒臭そうにおばあちゃんが出てくる。 ある日、奥から出てくるのが中年の女性に変わった。一言も発さずに、お金を受け渡す。彼女を声を聞くことはできなかった。 玉暖簾の奥を見ると、奥に仏壇が見える。きっとおばあさんは亡くな…
当番ノート 第51期
「あれがホタル?」 「違うよ。あれは電灯の光に照らされた塵だ」。 久我山のホタル祭りに行った。目を輝かせてホタルを探したが、神田川の川面で光るそれはホタルではなかった。(2019.6.16) 6月最後の日記。月に5日〜10日分くらい、自由気ままに日記をつけていますが、去年の7月、8月だけは空白です。 7月。家ではひたすらに眠り続ける生活を送っていましたが、職場では至って明るく働いていました。医薬品…
かさねのせかい はざまのものたち
はざまのものたちは かさねのせかいのうすい膜を けっして穿つことはないかれらは 輪郭など もたないものたちだから いくつもの層を すがたを変えながら 緩々と 行き来しては いろとりどりのタネをあつめる そして あつめたタネを ヒトに蒔きにやってくるのだ
当番ノート 第51期
絵を描くことに出会った頃、初めてかかった胃腸の病気の病み上がりだった。 医者からは軽度だからと入院せず自宅療養をしたが、数日間の絶食と数週間の流動食生活はなかなか堪えた。 何よりも、病気になってからは体質が根本から変わりはじめていて、 それまで食べていたものを受け付けなくなっていた。 おいしいと思って連日買っていた職場近くの弁当屋の定食が、おいしく感じられなくなっていた。 添加物の入ったお惣菜のお…
当番ノート 第51期
「好きな人がいると元気が出る」 仕事をしていると、時々素敵な言葉に出会う。たまに激しい言葉に出会すが、大体は丸くて柔らかい言葉たちだ。 私が働いているのは、精神障害がある方が暮らすグループホームだ。六名〜八名が一つの施設で共同生活を送っている。四施設を兼務し、関わるメンバー(精神保健分野では、利用者のことをメンバーと呼ぶことが多い)は二十四名にものぼる。下は二十代から上は八十代まで、建物もマンショ…
鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと
敬語禁止カフェをやった頃から、不快なことがおもしろいと思うようになった。 敬語を禁止されると、もともと持っていたコミュニケーションの形式をあきらめ、場当たりで対処するしかない。そうすると不安で、おろおろしたり、時に気まずくなったりする。そのすがたが、見ているとなんとも魅力的だった。わたしはそれがとても好きで、よくお客さんたちに底意地の悪さをなじられたが、そう言うお客さんのほうだって、お互いが言いま…
長期滞在者
今後仕事で新潟に行くことが増えそうなので、下見を兼ねて、三密を避けながら、土、日を使って新潟を散策した。 振り返ると、仕事以外で新潟に来るのは10年ちょっとぶり。その時は、苗場で毎年開催されているフジロックフェスティバルにアルバイトとして参加した。 大学2年の頃、たまたまフジロックでのバイト募集の広告を見かけて、急いで面接を受けに行き、働けることになった。 後から日程を確認すると、大学の試験と被っ…
当番ノート 第51期
マンションの7階のエレベーターを押しても、7階には止まらず知らない階まで行ってしまう。降ろされたフロアには、私の知らない世界が広がっていて、お母さん、と小さな声で泣きそうになりながら、一生懸命7階まで階段を降りる。 702号室までやっとの思いでたどり着いて、チャイムを鳴らすと、出てくるのは知らない人で、怖くなって、お母さん!と泣き叫びながらマンション中を探す。 小さい時から、何度もお母さんを探す夢…
当番ノート 第51期
雨の日が続きます。去年、出口のない6月を過ごしてから、1年が経ちました。深い梅雨の中で溺れていた。ここから2週間は少し苦しい話にお付き合いください。 去年の6月、地方の大学に進学したはずの妹が、都内にある実家に帰ってきました。入りたての大学を退学すると言うのです。「本当は叶えたい夢があった。自分の気持ちを無視して、4年間、違う勉強をし続けることはできなかった」それが妹の言い分でした。家族は何も否定…
当番ノート 第51期
絵を描きはじめていた。そのきっかけは突然だった。 役者をやろうと意気込んで、家と仕事まで変えて入学した学校を辞めて、 手元に何もない、空っぽになった自分のもとに まるでどこかの誰かが絵筆を渡しに舞い降りてきてくれたような感じだった。 ある平日の夜、友達に渋谷でワインを飲みながら楽しむアートナイトイベントがあるから参加しないかと誘われた。 てっきり映画か何かを鑑賞しながらワインを飲むようなイベントを…
長期滞在者
子供の頃見ていたものを大人になって久しぶりに見ると、あれ、こんなに小さかったっけ、と思うことがよくある。幼少の記憶だと、自分の体が大きくなっても記憶の中のそれは当時のスケール感のままである。自分の体が成長した縮尺を、成長後の記憶に反映できていないのだ。 小学生の頃、田舎で見たガガンボ(あの、蚊みたいな形のでかいやつ)がものすごく大きくて、感覚的には体長20cm以上あったような記憶があるのだが、調べ…
当番ノート 第51期
時々、どこか遠くの街で暮らすのも悪くないかなぁ、と思うことがある。 一人も友達がいないところへ行く勇気はないけれど、一人くらい友達がいるところなら、何かの拍子でふらりと移住してしまいそうだ。私は時々、突発的に行動してしまうところがある。だから本当にそうなっちゃうかもしれない。 「一緒に住んだら面白そう」 冗談っぽくそんな話を友達としながら、でも、ほんの少し本気も織り交ぜながら、まあそうなってもいい…