【4月のヤバい女の子/ オタクとヤバい女の子】
● 鬼を拝んだおばあさん
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《 鬼を拝んだおばあさん》
昔々、今でいう富山県の辺りに一人のおばあさんが暮らしていた。
おばあさんは変わり者で、鬼を熱心に信仰していた。普通の人が「仏様…仏様…」と唱える場面で、一人だけ「鬼様…鬼様…」と祈るのである。
周囲の人々は皆「やばいって、やめなよ」ととめるが、聞く耳を持たない。結局、年を取って亡くなるまで、生涯鬼を崇拝し続けた。
亡くなったおばあさんは三途の川を越え、閻魔大王のデスクの前に立たされていた。
閻魔大王は閻魔帳を見ながら正直ちょっと引いていた。何これ。資料に「生前、一度も仏を拝んだことがない」「鬼を拝みまくっていた」とか書いてあるんだけど。何をしたらこういう思想になるんだ?変な人間だな。とにかく一度も仏様を拝んだことがないというのはだめだろ。
というわけで、おばあさんは地獄へ落とされることになった。
しかし、恐ろしいはずの地獄へ一歩足を踏み入れた瞬間、おばあさんのテンションはぶち上がった。
何しろ、これまでずっと崇拝してきた鬼がその辺をうろうろしているのだ。これは夢だろうか?長年追いかけてきたバンドの打ち上げに参加できてしまったバンギャのような心持ちで震えながら周囲を見渡す。
一方、鬼の方でもちょっと照れていた。自分たちをいつも拝んでくれた人間と対面するのは嬉しくて気恥ずかしい。
釜茹での刑が言い渡されたが、鬼たちはこっそり特別な釜を用意してくれた。小ぶりの釜に42℃くらいの良い感じの湯が沸いていて、おばあさんはホカホカになった。
リラックス&デトックスするばかりで全く意味がないので、針山を登らせる刑にプランが変更された。鬼たちは今度はおばあさんの通り道だけ針を抜いてくれた。
無傷で針山の頂上へ到着すると、絶景が待っていた。あちらこちらで鬼が働いているのが見える。遠くの方には極楽がぴかぴかと光っている。こんな素晴らしい眺めはない。よし、ここに住もう。
勝手に移住計画を立てているおばあさんに閻魔大王はすっかり閉口してしまった。罰が罰にならないのでは本末転倒である。成果の出ないことにリソースを割いても仕方がない。結局、この案件は極楽へ回されることになった。
おばあさんは良い夢見させてもらったな~と思いながら、さびしそうに見送ってくれる鬼たちに手を振り返し、極楽への階段を登るのだった。
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この物語を初めて知った時、私はあまりのアホらしさに興奮した。
何かこの人、見たことある。この…誰に何を言われようとも、不遇になろうとも、一人で楽しそうなこの感じ…オタクだ。鬼推しのオタクだ。ではこれは、オタクすぎて地獄行きになった人の話ってこと?そんなアホな。
しかしひとしきり笑った後で、突然気味の悪さに襲われた。え、この人、そもそも何で地獄に来たんだっけ?
釜で茹でられたり、針山を歩かされたりすることは、笑いごとでない苦痛を伴うものだと容易に想像できる。結果的には面白おかしいオチになっているが、本来なら愉快な要素は何一つない。
そしてその責め苦を受けるおばあさんはいたって普通の人だ。地獄の釜や針山というベタな地獄像からは衆合地獄や叫喚地獄、無間地獄などが思い起こされるが、それに相当する殺人や窃盗や詐欺といった犯罪を生前に犯した描写は特にない。そもそも殺人や窃盗の事実があれば、いくら刑に効き目がないといっても極楽へのルート変更は難しそうだ。鬼とのコミュニケーションの様子を見ていると、「普通」どころかどちらかというと気の良い部類の人物であるとさえ感じられる。
それでも彼女は熱湯に放り込まれたり、串刺しになるところだった。鬼を拝んだという行為のみによって彼女の価値は決められた。
拝むというのは、何かを心の拠りどころにする行為である。
これは想像だが、多分、おばあさんは最初からずっとこんな風にコミカルなキャラクターだったわけではない。少女時代から青春を経て大人になり、様々なステージで色々な経験をしたはずだ。
一人の人間が老人と呼ばれるまでの数十年間という時間の中には、わーっと泣きながら走り出すほど悲しいことや、ただ立っている以外に何もできないほど苦しいことがあっただろう。その折々で鬼は彼女を支えてくれた。
もちろん実際に目の前に現れて何かしてくれたわけではなく、ただ概念として存在していただけである。しかし鬼という概念があるだけで彼女の心は明るくなり、信じるものに傾倒するいみじさは日々を少なからず豊かにした。
そうやって自分を奮い立たせてくれた「何とか日常に立ち向かって良く生きようとしたときに救われたもの」「自分の人生を幸福のうちに終えさせてくれたもの」が否定され、救われていた自分自身までもが悪いものだったとジャッジされる。
信仰に限らず、この通告は私たちの毎日に日常的に降り注ぐ。「普通は人生を豊かにするようなものじゃないから」「一般的にはこういうものを拠りどころにするべきだから」という理由で縋っているものを否定される。それはある意味では地獄よりも恐ろしい。
…と、第三者である私は勝手に憤慨しているのだが、当の本人は何だか全く気にしていない。
そもそも、最初から地獄に落とされると分かっていたらおばあさんは鬼を拝むことをやめたのだろうか。周囲の人は「死んだあと恐ろしい目に遭うよ」と警告したかもしれない。だけど彼女は信仰し続けた。例え煮えたぎる湯の中に落とされても1mmも後悔しなかっただろう。
おそらくおばあさんは、おばあさんになるまでの人生の中で「お前は間違っている」と何百回、何千回も言われてきた。だから、今さらそれが一回分増えたところで(あー、またか、まあいいや別に)としか思わなかった。
だって、鬼だけが彼女を救ってくれた。他の何にも彼女は救えなかった。あなたは「良い」の定義から外れているから「悪い」ものに分類しますよ、と言われてもその「悪い」がまるきり自分の「良い」だった場合、心の痛めようがない。
この物語の中では、おばあさんがおばあさんとして存在していることが、第三者のジャッジメントを無効化している。彼女は鬼に救われることを自分で決め、そして事実、軽快な心持ちで人生を生ききった。生ききった時点で彼女の一人勝ちなのだ。
クライマックスでおばあさんは極楽へ登っていったが、果たして彼女にとって極楽は良いところなのだろうか。
極楽に鬼はいない。きっともう二度と会えないだろう。しかし、そんなことは瑣末な問題かもしれない。
鬼と初めて対面したとき、窮地を救われたとき、おばあさんはきっと今まで想像のみで賄っていた「生きるよすが」に色がつき、動きが生まれ、体重や息遣いまでも感じることが出来た。さらに、彼らはおばあさんの思想と行動にレスポンスまでくれた。
本当に鬼が存在しているかも不確かだった生前でさえ強い熱量で乗り切ったのだから、目の前でその対象が動いて自分に働きかけてくれた今、おばあさんは無敵である。四六時中生活を共にしていなくても彼女のたましいは守られている。離れ離れになっても、目を閉じて呼べば浮かんでくる。
ありがとう、私の《神様》。私のヒーロー。私の源泉。極楽でも超ハッピーに暮らしてみせる。だからこれからも私の心の中に、永遠に住み続けていてね。/終