5月/嫉妬とヤバい女の子

日本のヤバい女の子

【5月のヤバい女の子/嫉妬とヤバい女の子】

● 山の女神

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《オコゼと山の神》

昔々、山にひとりの神が住んでいた。女性の神だ。普段はほとんど姿を現さなかったが、秋から冬は山を、春から夏は田んぼを司っていた。辺り一帯の村は彼女の加護を受け、いつも実りに恵まれていた。
ある時、山の神は珍しく里に降り、農作物の出来を視察して回ることにした。どの家でも田植えを終え、さわやかな風にまだ背の低い苗が青く揺れている。
かわいい苗の様子をよく見ようと身を乗り出したとき、水を引いている小川に山の神の姿がふと映った。

「…!」
思わず息を飲む。信じがたいほど「醜い」顔が、水面にゆらぎながらこちらに向けられている。山の神はこれまで一度も自分の姿を見たことがなかったのだった。
これが、これが、私の顔???私の顔は、こんなにも醜かったのか。今まで私は、こんな顔で生きていたのか。
思わず一歩、後ずさる。もう一歩。二歩。それからくるりと踵を返して山へ駆け戻り、彼女は社に閉じこもってしまった。

神が心を閉ざしたことによって山は荒れ果てた。木々は深く入り組んで人々を拒み、動物の影も見当たらない。川の水が減り、畑も田も干上がって久しい。
村人たちは困り果て、なんとか山の神に元気を出してもらおうと相談しあった。

数日後、社の前に数人の村人が立っていた。いっせいに懐からお供えものを取り出し、献上する。
それはオコゼだった。
トゲがたくさん生えた茶色い体。隆起した輪郭。つりあがった目。大きく開いた口。白地に黒の斑点模様の舌。
小さな魚の姿を見た途端、山の神はげらげらと笑い出した。
「…なんだ。私よりも醜い顔があったんだな」
そして引きこもるのをやめ、今までのように豊かな自然と作物を村にもたらすようになった。

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コンプレックスは人生のさまざまなシーンでその持ち主を追い立てる。体のラインの角度だったり、顔のパーツの位置だったり、人間関係だったり、性との折衝だったり、才能の総量だったり。
思い出に根を張って育つこの嫌な植物は、人によって科も属も種も異なり、強靭さも寿命の長さもまちまちである。簡単に植え替えられないし、誰かに撤去してもらうことも難しい。
そりゃあ、引っこ抜けるなら根こそぎ引っこ抜きたい。もっと言えばコンプレックスなんて最初からない方が、人生、過ごしやすいに決まっている。
だから《山の神とオコゼ》は、ひとりの女の子の悩みが解決された救済の物語だと捉えることもできる。
しかし、いや、なんというか、なんとも言いがたいのだが、この結末、果たしてオールオッケーなのだろうか?なんか腑に落ちなくない?

自分のことを好きでいられることは素晴らしい。私だって自分を愛したい。自分のせいで発生したわけでもない自分の一部に悩まされ続けるのはもういやだ。
どこまで行っても付きまとう断続的な苦々しさから逃れられるのなら、誰に貧乏くじを引かせても致し方ない。だって、今、こんなにつらい。
それは分かる。実際に、具体的に誰かを犠牲にしても構わないと思い、それを実行するかどうかはさておき、モラルをめちゃくちゃにしても救われたいという気持ちは確かに存在する。
だけど「山の神は醜いから、自分より醜い者を見ると安心して機嫌が良くなる」というストーリーを目の当たりにすると、そ、そんな、「下見て生きよう」みたいなことで解決する問題なのか…?という疑問がふつふつと湧き上がってくるのだ。


「山の神」と「オコゼ」は縁深い。山と海、生活圏は少しも被っていないのに、なぜか昔話の中で頻繁に結びつけられる。
二人の関係は愛に溢れるケースもあれば、憎しみが支配するケースもある。

前者は『御伽草子』だ。男性らしき山の神がオコゼの姫に一目ぼれし、愛の手紙を送り結ばれるという物語が収録されている。恋に悩む山の神にカワウソが「オコゼの姫は姿形が醜いからやめておきなさい」と言うのを、山の神は「彼女は高貴で知的ですばらしい形相だ」と一蹴する。

後者は、三重県尾鷲市に残る風習「笑い祭」。かつて山の女神と海の神(性別不明)が、それぞれのエリアに住む生物の数を競い合った。数えてみると海と山に住む者の数はぴったり同じ。勝負は引き分けで決まろうとしていた。そこへ唐突にオコゼが現れ、海チームに一票が加算される。怒り狂う山の神を宥めるため、村人たちは「こんな醜い生き物は魚ではない(よって、勝負は引き分け)」と言い、オコゼを笑い者にしてみせた…という伝説だ。

そして今回取り上げた《オコゼと山の神》では、山の神とオコゼの間には愛も憎しみも存在しなかった。愛してもいないし、憎んでもいない。だいたい初対面だし、お互いについて何も知らないので感情の抱きようがない。
縁もゆかりもない二人は、村人の想像によって突然結び付けられた。醜い者は、醜い者と争い合うだろうという想像によって。


話は逸れるが、山の神は、しばしば女性だと考えられる。
先に挙げた『御伽草子』では男性として描かれているようだが、各地域に残る伝説では大抵「女性」として登場する。
そして、彼女にはなぜか「嫉妬深い」というキャラクター設定が付いて回る。
「山の女神が嫉妬するから女性が山に立ち入るのは危険だ」と考えられ、それが宗教や風習と抱き合わせになって女人禁制に繋がったという説も唱えられている。
反対に、嫉妬される側にまわる場合もある。
秋田県を中心に、山の女神、木こりの男、男の妻をめぐる三角関係らしき伝承が残されている。やたらめかし込んで山へ出かける木こりを不審に思い、妻がこっそり後をつける。見知らぬ女といる夫を見た妻が怒って声をかけると女は消える。女は山の神で、夫を危険な足場で守ってくれていた。山の神が消えたので夫は転落死してしまった…というのが大筋だ。
こんな風に、女と嫉妬は「嫉」と「妬」の文字よろしく、1セットにされてきた。
「女は嫉妬する。自分よりも美しいものを、あるいは女そのものを排除する。そして自分よりも醜いものに安堵する。」

しかし、果たして人と人の関係性というものは、周囲の人間が定義できるほどイージーなものなのだろうか。
「女を排除する女」といえば、私は反対に、能の演目《竹生島》を思い出す。
ーー滋賀県・琵琶湖に浮かぶ竹生島に、男たちが参詣しにやって来る。竹生島は弁財天の島で、それゆえに女人禁制と決められていた。男たちは地元の漁師と海女の二人組に頼み、釣り船に乗せてもらい竹生島を目指す。
島に到着すると、海女は男たちと一緒に上陸する。男たちが「ここは女人禁制なのに、入っていいの?」と心配するが、海女は「弁財天は女性。女を分け隔てすることはない。」と語り、社の中へ消えていく。彼女の正体は弁財天の化身だった。ーー
この物語の中で、「女神」と「女」が排除し合う関係だろうと想像するのは周囲の人間だけだ。


とはいえ、顔の造形について悩む山の神にさらに醜い(と判断した)オコゼを当てがったからといって《山の神とオコゼ》の村人たちを責めることは心が重い。
山の神に出てきてもらわないことには農作物が育たない。早急に対処しなければ彼らは飢えて死んでしまうところだった。
しかし、事態がそこまで逼迫していなかったとすれば、これは人類が成熟するチャンスだったのにもったいないと私は思う。この出来事は、美醜の概念を見つめ直し、ままならない世界との付き合い方を考え直し、新たな一歩を踏みだすチャンスだった。

彼女が「私は醜いからもう外に出たくない。何もしたくない。生きる気力もない」と言い出した時、村人たちは「あなたよりも醜い者がいますよ!」と言うことで「醜い=悪」という概念を肯定してしまった。
そんなことよりいつも豊作をありがとうございます、とか、彼女の神様にしては多分に人間に寄った美意識はどこで形成されたものなのか?とか、そもそも「醜い」ことは山や田んぼに加護を与える強大な力を投げ出すほどに思い悩まされなければならない主題なのか、とか。
時代がもう少し穏やかで、もう少し物理的に生きやすければ、そういったことを考える余裕があったかのだろうか。今ならその機会をーーー問題の構図を【山の神vsままならない世界】から【山の神vsオコゼ】にスライドさせて間にあわせずに、【山の神(と人類)(とオコゼ)vsままならない世界 】について考える機会をーーーふいにしてしまわずに済むだろうか。

神と人間の話ばかりしてきたが、そもそもこの物語は、オコゼからしたらめちゃくちゃに失礼な話だ。
突然呼び出され、全く知ったことではない価値観で笑い者にされるのだ。迷惑極まりない。オコゼの価値観に照らし合わせて見れば、ヒトの方がよほど妙な顔ではないか。
そういえば、オコゼにも個体差がある。彼らは大抵は茶色い姿をしているが、ごく稀に黄色やオレンジ色の固体が発見される。黄色いオコゼも、山の神のように悩んだだろうか。
ちなみに、オコゼは白身魚。背中に猛毒があるが、身は美味である。唐揚げ、刺身、煮付け、酒盗、鍋もの、味噌汁にする。日本酒が飲みたくなってきた。
もしかすると山の神は、オコゼが自分より醜いから好きなのではなく、とにかく美味いから好きなだけかもしれない。それは山の神の社の中、彼女の食卓でのみ明かされることかもしれない。

/終