紅茶の湯気で星が見えない。

それをエンジェルと呼んだ、彼女たち。

何かを綺麗だと感じて、それを伝えたいと心に浮かぶ人がいる。美しいと感じることをあなたに伝えたい、と思うことは愛に近いと言ってもいい。

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そこまで考えて、ロシアの映像作家、ユーリ・ノルシュテインのアニメーション「霧につつまれたハリネズミ」が自然と思い出される。主人公のハリネズミ、ヨージックが森の仲良しのコグマに会いに霧の中を歩くあいだの出来事を10分ほどで描いたアニメーション。ヨージックとコグマは毎晩、並んで暖かい紅茶を手に、一緒に夜空の星を数えることを日課にしている。

そうやって星を数えるためだけに、もしかしたら星は口実なのかもしれないけれど、とにかく隣に座ってやがてそれぞれ帰っていくような友だちがいるヨージックとコグマが心から羨ましかった。私にとっては理想的な友人であり恋人の姿に思える。会話も行動もここでは大きな意味がない。隣にいるということ、それだけ。

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遥か昔、「言葉が通じる人と初めて出会った」と思った瞬間に恋に落ちたことがあった。最終的には「この人とは言葉が通じない」という理由で、遠く離れた。言葉が通じる、というのは今思い返すとひどい思い込みだったように恥ずかしく感じる。誰と向かい合っても、通じるように感じるときと、通じないと苛立ったり、淋しく感じる時があって当然なのだと思う。

本当に通じたのか、あるいは通じなかったのかについては、一生知り得ない。私たちはそれを知ってか知らずか、「伝えたい」「知りたい」と祈り続けたり、ぶつかり続けたりしている。

もしかすると私は少しだけ、醒めてしまったのかもしれない。いつしか自分の喜びや淋しさをひとりの人間に重ね、分けあっていくのは到底無理だと思うようになった。そう思えたとき、初めて少し幸福になった。

必ずしも共感できなくても、分け合えなくても、一緒に暮らせることは素敵だ。同じ気持ちにならなくても、一緒にいることを選んで行けるのは心地いい。人に明け渡したくない「空白」をそのままに、互いの人生に揺られながら生きて行ける予感がする。隣にいる、それだけを許し合っていく。

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「今夜の月は綺麗ね」と伝えたい相手と「今とても辛い」と打ち明けたい相手は違う。人は時に気持ちの重さを測ろうとするけれど、私の場合は単純にそれぞれの関係性上に別々の愛着や友情があるだけと感じる。ただ、この考えはほとんどの場合、相手には受け容れられない。一方で、私のほうは相手がそれを拒むのも当然なのかもしれないと思っている。ぎくしゃくした後に残るのは出会う前よりも色濃くなった淋しさだ。当然の成り行きだとしても、「どうして行ってしまうんだろう」と身勝手に悲しくなる。

私はようやく気づく。私の頭のなかにある緩やかに個がつながって暮らす童話のような理想郷では、「去る者」もまた穏やかに見送らなければいけない。それが理想郷における礼儀なのかもしれない。だって、約束がないんだもの。約束する理由もない。ただ隣にいたかっただけ。星を数えていたかっただけ。あるいは、そろそろ腰をあげる時間だっただけ。

なのに、穏やかに手を振るその動作がすんなりとできない。未練なんて大人っぽい言葉よりも、それは仲良しの友だちに親の都合で引っ越すこと告げられた小学生の自分が感じた喉に詰まるような淋しさに似ている。

「人生の通行人たち」のほとんどは「またどこかできっと」と信じたまま、別々の道を歩き続けている。それから何度も会う人もいれば、まだその時が訪れていない人もいて、おそらくはこの生を終えるまでに再び会わない人もいるかもしれない。だからこそ、たとえ明日からいつもの場所に来なくなっても、一緒に星を数えたその人を大事に思う。

ヨージックはラストシーンで霧の中で怖い思いをしながらも無事にコグマに会うことができて、「やっぱりコグマと一緒がいいな」と思うのと同時に、霧の中でほんの一瞬見かけた白馬はどうしているだろうと思い浮かべる。

ほとんどの物事は半面しか見えていない、なんて言葉を最近本に見つけた。

本当にたくさんのことが同時に起こるこの世界で、私たちは懲りずに自分が見たいものばかり見て、追いかけている。

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