真実から遠い、「本当のこと」

それをエンジェルと呼んだ、彼女たち。

「本当の」とつく言葉の意味について、立ち止まってしまうことがある。

本当の優しさ、本当の幸せ、本当の悲しみ。いつもそれに辿り着いてみたいと思うのに、いつまでも自分が手にしているもの、目にしているもの、耳にしているものが「本当の」ものなのか判断がつかないでいる。例えば、「すごく好きになった人がいたことある?」と聞かれれば「ある」と答えられても、「本当の恋をしたことがある?」と聞かれれば自信がなくなってしまうように。

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親友の話をしようと思う。

長い付き合いだけど頻繁に連絡を取り合うわけでもなく、住んでいる場所も遠い。それでも思春期の頃からの友だちで会えば永遠喋っていたから、お互い知らないことはないはずだった。ほとんど溶け合ってしまいそうなくらい知っている、と思えることが私が24歳だった当時、彼女との友情のなかで一番好きな点だった。

だけど彼女にはひみつがたくさんあった。否、あるということを知っているだけでその多くを私は未だによく知らない。例えばタバコを吸うこと。恋人のこと。几帳面につけているという、日記のこと。

ある出来事をきっかけに今まで知らなかった彼女を知った。「彼女を知っている」と思い込んでいた私の認識はグラリと音を立てて崩れた。一心同体だと疑わなかった私は、ショックな気持ちをこれ以上なくシンプルに伝えた。

「言ってくれればよかったのに、どうして」。

長時間一緒にいても彼女が「言わなかったこと」に気づかなかったのは、私が盲目的だったという以上に、彼女の気遣いと感情がとても繊細で揺るぎないものだったからだと今なら思う。言わなかったことで彼女を責めてしまったときは、ただ言葉少なに彼女も辛そうにしていて、少し時間が経ってから手紙をくれた。

今まで黙っててごめん。
その一言がもつ切なさに、私は自分の思い違いに気付かされたんだった。

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彼女は言わないほうがいいと自分が思ったことを周りに悟られることなく内側に持ち続けることのできるとても強いひとだということと、彼女が私に謝った「黙っていたこと」の数々は「本当の友だちであること」とも無関係なんだということ。

本当のことを知っていても、知らなくても、自分のなかの愛情を曇らす必要はない。そもそも本当のことは真実という意味じゃないんじゃないかなぁ、と遅かったかもしれないけれどその時に学んだ。

わかりたいと思うことはストレートな欲求だと思う。

だけど、ひとつひとつの感情を分解することはいつだって難しい。わかりたい、のなかには自分のなかに取り込みたい、というような独占欲も含まれているように感じる。ただ、わかり合うということになると、相手がすっぽり隠れてしまえるくらいのその人のための庭をお互いの関係性のなかにもつことが大切になってくる気がしてくる。

知りたいというのは好奇心に突き動かされた衝動だけど、今は彼女を知りたい・わかりたいというよりも、たぶん「わかり合いたい」。本当の彼女を、というよりは、いろいろを自分なりの方法で抱えて生きる彼女を、まるっと。

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親友との一連の感情をやり取りしたあと、「本当の〇〇」で大切なのは一見的確に言い表しているように見える要素よりもその周りをぼんやり漂う、言語化できない複雑さなんじゃないかなと思うようになった。そこに到るまでのいろんな感情が入り混じって濾過され生成された、もう誰にも元来た道を辿れないようなもの。それに触れた気がするとき、人はつい「本当の」と付け足したくなるのかもしれない。

本当の、の共通認識を誰もうまく説明できないとしても、渦巻く感情の海でそれを見つけようとすることが、人や物事との関係を複数の階層にわたる味わい深いものにしてくれる。

そんなことを一回きりの人生のなかで考えるのが、面白いなぁと思う。