橙夜祭

第8期(2013年4月-5月)

 トランプの塔を組みあげるような手つきで、書類を美しく積み重ねることに情熱を傾けていた男が、服は洗濯せず畑で燃やす主義の女と結婚した。

 彼らが籍をいれたのは、彼らのひとり息子が結婚する半年前のことだった。

 港町からやってきた美しい娘と息子の縁談がまとまったのち、花婿の両親が正式な夫婦ではないことが判明した。こんな家にだいじな娘をやるわけにはいかない、と花嫁の両親は激怒した。婚約はあわれ破談するかと思われたが、美しい花嫁が泣き伏し、花婿の父が婚姻届に印を押したことで、若いふたりも同じ書類を持って役所に足を運ぶことができた。
 
 
 誠実と清潔を愛した曾祖父が、なぜ野獣のような曾祖母とともに暮らし、予期していない形とはいえ籍を入れたのかは、巨石文明のように、一族の大いなる謎として残された。

 ふたりが出会ったとき、すでに曾祖母は幼い祖父の手をひいていた。息子への愛をうたう交響曲をかなでるため、彼女は指揮棒のかわりに包丁を振りまわしたが、息子の父親についてはふつりと口を閉ざし、お気にいりのどてらとともに、秘密を墓にまで持っていった。

 ひまわりと秤をあしらった弁護士の記章にふさわしく、曾祖父は義理と契約を重んじる人であったから、恩人にふたりの世話を頼まれたのかもしれない。それとも、聡明な幼な子の命と将来が危ういのを、見過ごせなかったのか。

 多くの幻と夢と憶測が、結ばれては消えていった。おそらく祖父は、かなりのところまで謎を解き明かしていたと思われるが、彼もまた両親にならい、沈黙の海に沈んでいった。

  
 秘密は、あらゆるところに隠されている。草木深くに眠る墓石の下に、船舶ランプが照らす曾祖父の地下書斎に。

 若いころにミシンを売り歩いていた曾祖父は、戦後復興の潮流にのってひと財産を築き、のちに書生となって法律の道を志した。その穏やかな人柄から、多くの人が援助を申し出た。下宿屋のおかみは喜んで礼儀正しい書生に宿と食事を与え、女たちは笑いながら彼の売るミシンを買っては、お礼のシャツを仕立てた。

 弁護士として働くようになってからは、地域に住まうあらゆる人々の相談ごとにのった。語学に堪能だったため、米国の駐屯軍に呼ばれることもしばしばあった。富める人からはそれなりに、貧しい人からはささやかに報酬を受け取った。ある庭師は曾祖父にたいへんな恩義を感じ、故郷に帰る折に、彼が手塩にかけた美しい日本庭園のある土地を破格で曾祖父に譲った。この土地と二軒の屋敷が、ふたつの夫婦にとっての終の住処となった。
 
 
 表舞台では、曾祖父は地元の名士として、いつでも喜びと敬意をもって迎え入れられた。しかしひとたび屋敷に帰れば、漬物石そっくりの姿で、法律上の妻が火鉢の横に転がっていた。

 台所には、食べ終わったままの食器がぬらぬらと油の光を放ってうず高く積み上がり、風呂桶は交尾するトンボたちの楽園となっていた。彼女の羽織を爆心地として、家の中には腐ったバターの甘い香りがただよっていた。この地上に、彼の居場所はなかった。

 悪夢の八畳間から逃れるため、曾祖父はますます、誰かの人生を左右する書類に没頭していった。じつに退屈で多彩な訴訟状と礼状の白い影が、渡り鳥の群れのように彼の頭上を舞った。
 
 
 悲しみと怒り、正義と不実を記した書類たちは、曾祖父が見上げる空を白くおおいつくし、やがて雪となって、彼の地下書斎へと降りつもった。書斎は常闇の天国、己の正気を守る礼拝堂、居間のケルベロスから逃れられるただひとつの亡命先であった。

 書斎への扉は、きしむ廊下のつきあたりにあった。扉はだいたい開かれていたが、家の者は近づこうとはしなかった。ただひとり幼い母だけが、考古学者めいた興味から、逃亡者の楽園をのぞきこんでいた。

 おじいちゃんを呼んでいらっしゃい、と祖母からの号令がかかることを、母は心待ちにしていた。女帝お墨つきの許可証があれば、気がねなく亡命者のもとを訪れることができる。

 黒皮張りの安楽椅子に身をまかせて、曾祖父はこの世の片隅に埋もれていた。唯一の光源である、骨董品の船舶ランプから乱反射する橙の灯火が、天井にビザンチン建築のようなフレスコ画を描いていた。四方の壁からせりあがる書類の束は、天井にまでその手を伸ばし、曾祖母からしたたり落ちる狂気の浸食を拒もうとしていた。

 おや、また来たのか。女の子がこんな暗いところにいると、目を悪くするよ。母が来たときだけ、曾祖父は書架のはしごに架けてあるランプに点灯した。

 ひとつ、またひとつと増えていく橙の灯はまるで祝祭のように、母を、そして誠実と清潔を重んじる曾祖父の、この世界への嫌悪と恐れを照らした。

 
 地下に生き、語ることのない秘密を抱えて死んだ曾祖父の闇がどれほど深かったのか、残された者に推しはかるすべはない。

 だが、わずかな灯が夜を拓くこともある。自分を迎えいれてくれた橙の光を母は愛し、美しいと感じた。光は祭の行灯のように彼女を手招いた。四半世紀後に、母は曾祖父の後を継ぐようにして、彼がおのれを守った書類の束と六法全書を抱え、めまいのように人の心という暗い茂みに足を踏みいれたのだった。