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2F/当番ノート

音を拾い過ぎないというのも正しい自分の守り方

当番ノート 第53期

雨の音が好き。ぱちぱちと花火みたいな音もあれば、ぽつぽつとボールペンの走るような音もある。

わたしが小さかった時、ブラウン管の砂嵐のざあざあという音を「雨の音みたい」と言ったら、わたしのお母さん、つまりきみのおばあちゃんに褒められたんだけど……そうか、そもそもきみはブラウン管の砂嵐を知らないか。

「耳がいい」と言われその気になった流れで、同じマンションの大学生のおうちでピアノを習い始めた。
でも10年以上続けたのに全然上手にならなくて、「劣等感」という荷物が一つ増えた。わたしはその荷物を割と長い間持ち歩いてしまった。

わたしは「耳がいい」わけじゃなかった。ただ雨の音が好きなだけだった。
大人は子供を愛しすぎるから、我が子にまつわることはすぐに都合よく、かつ大袈裟にすり替える。

小学校の時、同じクラスだった男の子が補聴器をつけていた。
先生の話によると補聴器をつければ万事OKという話でもないらしく、聞こえなくてもストレス、聞こえすぎてもストレスらしい。

わたしは首をひねった。「聞こえなくてもストレス」はまあ分かるとして「聞こえすぎてもストレス」って何なんだ。

その子はイライラするといつもノートをびりびりに破り、よく頭が痛いと言っては保健室で休んだ。

子供という生き物は本当に浅はかで単純で、その証拠に当時のクラスでは「けびょう」という言葉が流行った。
補聴器の彼に限らず、「頭が痛い」と「おなかが痛い」は「けびょう」。
「熱が出た」でやっと初めて人から病気だと認めてもらえた。

それからしばらくしてからなのだけど、わたしも学校で頭が痛くなったことがあった。
友達が集まってわたしの悪口を言っているのを聴いてしまったからだ。

“聞こえなくてもストレス、聞こえすぎてもストレス。”
先生の言葉のとおりだった。

あの子はきっとただの一度も仮病なんかじゃなかった。
身をもってそう気づいた頃にはもう遅くて、わたしはあの子がどんな中学校へ進んで行ったのか、今どんな街で暮らしているのかなど知る由もなかった。

娘へ。いつもきみへ心を込めて綴っているこのアパートメントでの言葉。きみが少しでも生きやすいようにといつも前向きな想いで取り組むのだけど、今回初めて悲しい気持ちで書いている。

それがなぜかというと、わたしの小さな頃に過ごした子供の世界と、今わたしが生きる大人の世界がさほど変わっていないことに今気づいたからだ。
「頭が痛い」と「おなかが痛い」は「けびょう」、その風潮は今も根強くある。
大人の世界でも、目に見えない傷に皆とても疎い。

けれど人間には目に見えない傷が確かにあって、骨が折れただとか熱が何度出ただとか視覚で証明できるのとは違う痛みが、そのへんを歩いている人たちの一人一人の心に刻まれているかもしれないということを、きみには早い段階で知っていてほしいと思う。

「音」もそう。目に見えない。目に見えないのに時に人を深く刺したり乱暴に体を突き飛ばしたりして、これまた目に見えない傷を与える。

そういう「音」の正体は「言葉」であることが多い。

生きているとどうしてか、雨の音のような心地よさとはほど遠い言葉に出会うことがある。
人を貶したり蔑んだりする時の言葉は、嫌な音がする。 国語の教科書で習ったあのやわらかでうつくしい言葉たちとは違う、嫌な音がする。


そしてとても厄介なことに、その嫌な音が共鳴する時に人は「私たち、気が合うね!」なんて快感に似たものを抱いてしまうらしい。
そうするとどんどん嫌な音は重なり合って響きが広がっていく。雨の音ではかき消せないほどに。




だから、きみが「音」を拾う時——その音の正体が「言葉」だった時は、特に注意深くいてね。
音を、言葉を、過剰に聴きとらないで。

きみにとって受け止められない「音」ならば、それはアラビア語かスワヒリ語だと思っていいからね。
音を拾い過ぎないというのも正しい自分の守り方。

きみは一切合切の嫌な音に立ち向かわなくていい。
もし耳を塞いでも走って逃げても「音」が追いかけてくるときは、わたしはたちまちカンガルーになってきみを腹のポケットに押し込んでやる。
世界から聴覚を遮断して、わたしのゆるやかな鼓動だけを感じていたらいい。

そうしてきみがあたたかくて静かな場所に避難したとき、本当に幸せ者なのはきみじゃない、わたしのほうなのだ。



やっぱり雨の音が好き。雨が窓を叩く音がとても落ち着く。

雨の音を聴くとき、私は過去の失恋を思い出す。パパとの初デートを思い出す。産後の孤独を思い出す。

そしてきみに初めて買った傘を思い出す。きみに初めて買った長靴を思い出す。きみのために買ったディズニーランドのカッパを思い出す。

大切な思い出はいつも、優しい音と一緒に蘇る。
心の中に愛おしい水たまりができあがる。

世界には音が溢れているから、多くの選択肢の中からお気に入りの音を見つけようとする時きみはとても迷ってしまうかもしれない。

けれど何かひとつ見つかれば、それを大切に持っておいてください。




今きみに「好きな音はなあに」と尋ねてみたところ、きみは3秒考えて「ない」と言った。
エッセイの文末に使おうなんていう大人のよこしまな考えを見透かされたようで、わたしは途端に恥ずかしくなった。ないよね。いいよ。素直でよろしい。

そしてこの会話もまた、大切な雨の記憶の一部になるんだろう。

みくりや 佐代子

みくりや 佐代子

広島在住のライター・エッセイスト。「母親らしく」を諦めた二児の母。優しさと憂いをもって書きます。好きなもの先に食べる派。
【著書】あの子は「かわいい」をむしゃむしゃ食べる(Impress QuickBooks刊)

Reviewed by
terai.yusuke

どんなにヘルシーものであっても、「過剰」であることはそれ自体が毒となりうる。
その毒に対して免疫はあるのか? どこまでなら許容できるのか? 致死量はどれぐらいか?
人それぞれだ。だから、自分の身を守るためには自分の体の性質と、毒との付き合い方を知らねばならない。

やっかいなのは人の善意だ。よかれと思って、あなたのためを思って、そんな風に手渡されたものが誰かにとっての毒になりえるなんてなんて、きっと想像してやしない。反故にはできない。だから摂取する。するといつの間にか体に不調をきたす。善意の過剰摂取は、それ自体が精神の毒になりうる。

みくりやさんの当番ノート、今週の更新は「音」について。僕はこの話を毒の話だと思って読んだ。彼女はこの連載を自身の娘である「きみ」に向けて書いている。その眼差しは暖かく、庇護に満ちたものだということが行間から伝わる。かつ、具体的だ。幼い子をかばいながら、自分で自分の身を守るための方法が必ず記されている。それは、年齢を重ねて「大人」と呼ばれながらも不完全に生きている私たちへの処方箋となるものである。印象的な一節を引こう。

「人間には目に見えない傷が確かにあって、骨が折れただとか熱が何度出ただとか視覚で証明できるのとは違う痛みが、そのへんを歩いている人たちの一人一人の心に刻まれているかもしれないということを、きみには早い段階で知っていてほしいと思う」

学校では「自分がされて嫌なことは人にはしてはいけない」と教わるが、この言葉は思慮にかけている。自分が嫌ではなくても、人は嫌がるかもしれないということを踏まえていないからだ。見知らぬ誰かが抱えているかもしれない傷を想像することは、社会の中に無遠慮に飛びかっている「自分を傷つけるもの」を察知するための方法だ。誰かの傷を想像することが、自分の身を守ることに繋がる。そしてその暴力的なものの正体は「言葉」であると、みくりやさんは続ける。

「「音」もそう。目に見えない。目に見えないのに時に人を深く刺したり乱暴に体を突き飛ばしたりして、これまた目に見えない傷を与える。そういう「音」の正体は「言葉」であることが多い」

言葉による傷は眼に見えない。だから自分が誰かにつけた傷も見えないし、つけられた傷も見えない。だからこそ、言葉は慎重に扱わなければならない。

「きみが「音」を拾う時——その音の正体が「言葉」だった時は、特に注意深くいてね。
音を、言葉を、過剰に聴きとらないで」

体内に取り入れられた毒は抗体をつくる。みくりやさんが身をもってつくった抗体は「きみ」に手渡される。
その瞬間に立ち会った私たちもきっと、いつか毒を克服することができるはずだ。

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