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2F/当番ノート

身も蓋もないけれど「友達」は途中でやめられる

当番ノート 第53期


きみは次の春が来たら、これまでのお友達とはさよならをして、ひとりこの町の小学校へ向かう。
わたしの仕事の関係で引っ越し後も上手く転園できなくて、きみは6年間、隣町の保育園に通っていた。そこでたくさんの友達ができて、いつも帰りの車内では「今日は誰と何をしたか」をこと細かに教えてくれた。

みんなとは3月でお別れなのだと説明はしているものの、きみは学校が離れても友達のままだと信じてやまない。その証拠に、「あいちゃんのランドセルも赤なんだって。まちがって持って帰ったらどうしよう」と不必要な心配を今日もしていた。

中2の冬に、なぜかバレエを観に行ったことがある。
演目も会場の場所も覚えていない。わたしはそのチケットを、よく知らないクラスメイトの女の子から貰った。

彼女はとてもおとなしく、生活態度の粗暴なわたしとは決して交わるタイプではなかった。
長い髪をいつも頭の高いところに結って、人形のようにぴんとまっすぐに姿勢を保っていたのが印象に残っている。バレエをしているから姿勢が良いのだと後に知った。


彼女が授業中に先生の問いに答える場面があった。
か細い声を震わせながら答えるものだから、クラスの幼稚な男子が「聞こえませーん」とわざわざ言った。
その言葉にカチンと来たわたしが、わざと「聞こえまーす」と同じトーンで言ったら教室がシンとした。

その日から彼女とわたしは友達になった……と繋がれば素敵な物語なのだけど、実際は挨拶を交わすようになった程度だった。
でもその挨拶は、決まってわたしが一人の時に。友人らとわあわあと騒いでいる時には絶対に寄ってこなかった。


ある日、なにがどうしてそうなったのか、彼女からバレエの講演のチケットを貰った。
「お母さんと来て」と何気なく言われ、どうして来る人まで指定するのだろうと思いつつ素直に母に話した。すると母は意外と乗り気になって、本当に行くことになってしまった。

開演前に差し入れを買うことになり、わたしはお花にしようと言ったのに、母は「お菓子がいいんじゃない?絶対お菓子がいいよ」と言い張った。
こうなったら母は止まらない。仕方なく言うとおりにして、くまのプーさんのはちみつの瓶に黄色い飴がたくさん入ってるものを買った。

会場の受付でみんな花を預けていて「ほら、やっぱり花だったんじゃん」と思った。飴の詰まった瓶がやけに安っぽく、場違いな自分と重なった。



幕が上がり、演目が始まる。舞台を舞う人たちはみんなお化粧をしていて、いくら凝視しても誰が誰か分からなかった。
母がこそっと言う。「みんな綺麗。あんたの『友達』、どれ?」

わたしはステージの隅々まで目を凝らした。けれどどれだけ探しても、クラスにいるその子が見分けられない。

その時思ったのだ。わたしたちは「友達」なんだろうか?本当に「友達」だったら、真っ白にお化粧をしていたって見つけられるんじゃ?

最初から最後まで、周囲の様子を伺いながらぎこちなく拍手をした。結局、彼女がどこにいるのかが最後まで分からなかった。

娘へ。わたしは今回きみにこの話をするために、中学時代の友人ふたりに「◯◯さんって覚えてる?」と彼女のことを尋ねてみた。ひとりは「おとなしいけど綺麗な子だったよね」と言い、ひとりは「覚えてない」と言った。

きっとわたしは「友達だから」チケットを貰い、「友達じゃないから」その後も親しくならなかったんだろう。

小学校に上がっても、明るいきみのことだから、これから先に多くの人と「友達」になると思う。と同時に、そのうちの何人かの人は「友達」じゃなくなると思う。
誰がそうなるかは事前に判断がつかなくて、とてもむずかしい。
信じられないと思うけど、「友達」の中にはトランプのジョーカーのように、ぺらりと1枚めくるだけでいとも簡単にきみを傷つけ始める人も、いてしまう。

ただひとつ、わたしがきみに伝えておきたいのは、「友達」になれるかどうかの直感をどうか信じないでほしいということ。

生まれて初めてバレエを見た時、舞台の上を別世界だと思った。
あの眩しい光の中にいる人はきっと、自分なんかとは違う人種だと思った。

真面目でおとなしいのに実はあんなに本気でバレエに打ち込んでいる彼女と、教室で騒いでサッカー部の男子を眺めて帰り道にプリクラ撮ってるだけのわたしとでは、性格も制服の着こなしも休日の過ごし方も違う。

あの時、誰に言われずとも確信してしまった。「わたしたちは友達になれない」と。

でも、そんな決めつけが間違いだということを、きみには知っていてほしい。「友達になれるかどうか」を直感で決めつけてしまわないで。

これはのちのち知ったんだけど、人間関係って流動的なものらしい。だから身も蓋もないけれど「友達」は途中でやめられる。きみがしんどくなったらいつでも、やめていい。
だから、おそれず「友達」になっていいんだよ。一歩目にたじろぐ必要はないんだよ。

わたしはあの時彼女と「友達」になろうとしなかったことを、大人になった今とても後悔している。

きみが公園で撮ってくれた写真。知らない小学生たちが集まって何かしているのを、きみはじっと眺めていた。
小学生のグループは二手に分かれて、一方は円になってジャンケンをし、一方は連れ立ってどこかへ行ってしまった。

わたしたちの暮らすこの町には電車もバスもモノレールも通っている。だからきみは、遠くない未来に自分の足でまだ見ぬ「友達」を探しに町を飛び出すんだろう。

どこまでも行って、「友達」に出会ってね。もしも一人ぼっちになったらその時だけ帰っておいで。
失敗や後悔ならわたしがいくらでも話してあげるから。きっとわたしはきみに話すために失敗をしてきた。

きみは真剣なまなざしで、日差しをめいっぱいに浴びながら逆上がりを必死に練習している。その脇を、鳥が群れをなすように小学生らがわあっと笑い声をあげて通り過ぎる。

ひとつの街を共有して多くの人が生きている。

みくりや 佐代子

みくりや 佐代子

広島在住のライター・エッセイスト。「母親らしく」を諦めた二児の母。優しさと憂いをもって書きます。好きなもの先に食べる派。
【著書】あの子は「かわいい」をむしゃむしゃ食べる(Impress QuickBooks刊)

Reviewed by
terai.yusuke

もう連絡の取ることが出来ないかつての友人は無数にいる。多くは喧嘩別れのようなものではなく、ただ「なんとなく」疎遠になってしまったものだ。その喪失感は、すぐには姿を表さない。かといって、時間とともにじわじわと蝕んでくるような意地悪な性質のものでもない。ただそこに、昔から存在していたかのような穴が、いつの間にかある。その存在に気づいた時にはもう遅い。友達は既に他人になっている。

「わたしはあの時彼女と「友達」になろうとしなかったことを、大人になった今とても後悔している」

みくりやさんの書いたような後悔を何度してきただろう。友人関係は努力によって結ばれ、維持していくものだ。手を差し伸べられたなら、握り返さないといけない。その手を離さないための理由を探さなければいけない。そのことを知っていたら、なんて僕が思っている間にもみくりやさんはきみ(娘さん)に語りかける。

「きっとわたしはきみに話すために失敗をしてきた」

その時は何かを失ったなんて思っていないから、もし時間を遡れたとしても僕はきっと同じ失敗をする。でも、その失敗を後悔にしないための方法を今ひとつ知ることが出来た。それでいいじゃないか、と思う。

みくりやさんの当番ノート、更新です。

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